広瀬正勝の最近のブログ記事

ディスコⅠ

 ドン・コーネリアス氏が亡くなった。

1970年代から始まった人気音楽番組、「ソウルトレイン」の名物司会者だ。

 

 ミュージカルがしたくて東京の大学を選んだものの、なにから始めたらいいか解らず、

すすめられるままにバレエのレッスンに通い始めた。何度も書いたが、稽古場は新宿コマ劇場。

繁華街ど真ん中。劇場裏の楽屋口から出入りする。

当時はインベーダーゲームとディスコが大ブーム。

月・水・金と通っていたのだが、金曜日のレッスン終わりには・・・・・楽屋口を出て20歩のビルに

「トゥギャザー」と言うディスコがあった。フロアーも広く、生演奏で人気のお店だった。

この店に知り合いの人がいて、いつもこっそり潜り込ませてもらっていた。

 ここでかかっていた曲が、「ハッスル」だった。ウ'ァン・マッコイの曲だ。

当時黒人音楽がディスコでよく流れていた。それはアメリカで、「ソウルトレイン」と言う番組が

人気だったせいだ。黒人の音楽や文化などを発信していた。

「ソウルトレイン」の名物司会者。 ドン・コーネリアス

彼の名を聞くと、なぜか楽しかったディスコでのことを思い出す。

 

 

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忘れられない一日

 17年 阪神大震災から17年も経った。

 

 1977年 成人を迎えた私たち年代に、戦争を体験した年代の方々にこう言われていた。

「あれから干支が一回りしたか。早いものだなぁ。12年で日本がここまで復興したのは不思議な

ことだ。」と。

 

 戦争復興と、災害復興とは意味合いが異なるかもしれないが、17年経っても人々の心の傷は

まだまだ癒されずにいる。

終戦からは67年。苦しんだ人々の多くは鬼籍にはいられている。

 

 歴史を伝える手段のひとつに舞台があるとするならば、少しは考えないといけないのかもしれない。

 

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    新年 明けまして おめでとうございます

 

 月日が経つのは早いもので、平成8年に会社をたちあげて、今年で16年。

なかなか軌道にのらず苦労の連続。

 舞台からは離れられず、なんとか今年は作品をと考えています。

 

    チャレンジ精神で頑張るぞ!!!

 

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生き方

 関西、いや大阪が今注目を浴びている。

勿論その中心にいるのは、橋本大阪市新市長だ。「大阪都構想」 兵庫県民の私だが、

少々気にはなる。ここ数日は挨拶回りで各政党の人たちと会談している。

対応する議員さんたちの演技力?には、舌を巻く。

やはり政治は、「数」なのだろうか? 議席数のためなら「人気」にすり寄るしかないのだろうか?

 

 30代のころ、先輩の50代のプロデューサーとよく言い争いになった。

理想を追っかけ作品作りをする私に、現実を突きつけてきた。

「舞台に立つ俳優は、みんながみんな舞台が好きなわけではないで。事務所が給料制の役者は

仕事として舞台に立つ。サラリーマンとかわらへんでぇ。」

まぁ今思えば、当たり前のことかもしれないが、当時はなかなか受け入れられず、

「この作品を真剣に捉えてくれる俳優を探します!!!」と意気込んでた。

 

 今若い人と仕事をしていると、いい意味での妥協をする。じつに現実的だ。

世の中の流れがそうさせているのかもしれないが、少しさみしい気がしないでもない。

「熱い生き方」は反発を買う。苦労もつきない。下手すると、「変人」扱いされる。

 

 「舞台」 まだまだ未練がある。 「今一度」を信じて、もう少し動きだそうと思う。

 

 

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不思議なチーム

 先週敦賀での公演を、無事に終えた。

打ち合わせから約一年。早いものだ。

 

 子供たちを指導していて一番悩む事は、やはり集中力。

今回も長きにわたって練習してきたので、同じことの繰り返しに飽きてしまった時期があった。

毎回の事なのだが、今回もやはり・・・・・

結論から言えば、本番が一番良かった。

本番が良かったのだから何も言うことはないのだが・・・・・

最終の舞台稽古を見て、スタッフへのお願いをする。その時には、「たぶんこうなるだろう」と

予測してお願いをするのだが、それがまぁ・・・いい方向にでたので必要ないことになった。

 

簡単に言えば、今まで見たことのないほどダンスが揃ってたりとか、芝居をきちんとしていたりとか、

嬉しいやら少々腹が立つやら、複雑な心境だった。

あんなに出来るのなら、もう少し先に進めたのに!!!

でもまぁ結果が良かったのだから、贅沢なことだ。

 

 今回は生徒の父兄やら、関係者の方も出演して頂いた。(声のみも含めて)

その方々に、以外な事を教えられた。忘れかけていたことだ。

「舞台、作品に真摯に取り組む」 真摯に取り組む。

新人のころはあたりまえしていることを、今は忘れがちになっているかもしれない。

 

 稽古段階ではビシッと出来たことがないのに、本番では何食わぬ顔でやってしまう子供たち。

本番直前まで質問してこられる大人の方々。

まったく奇妙な組み合わせのチームだったが、なんだかとっても楽しかった。

 

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恐れ入谷の鬼子母神

 先日東京に行って来た。

久しぶりに山手線に乗っていると、懐かしい言葉が耳に飛び込んできた。

たぶん私より少し年配の方だと思う。

「・・・・・・そうなんだよなぁ。かみさんにはちょんばれでさぁ~・・・・参ったよ。

 恐れ入谷の鬼子母神だよ。・・・・・・」

 

 恐れ入谷の鬼子母神 何十年ぶりに聞いたのだろう。

 

1978年 日生劇場に初めて観劇に行った。演目は、「王女メデァ」

蜷川作品だ。 平幹二朗さんだった。 難しい内容で・・・・・

芝居通の友人が・・・「内容は鬼子母神と同じだよ。」って。

???????

芝居を志すには、どうやらギリシャ神話?悲劇?を読破しなければいけないらしいのだが、

私にはさっぱり・・・だった。するとその友人が、

「恐れ入谷の鬼子母神だね。」って。

またまたわけのわからない事を言い出した。

まぁ簡単に言えば、「おそれいりました。参りました。」と言う意味らしいけど。

 

 数日後気になっていたので、日比谷線に乗って、入谷まで出かけた。お寺の名前は忘れたが、

由来だけは確かめてきた。

 

 電車の人は、芝居とは関係なく発した言葉だと思う。

何気に耳に入ってきたことが、昔を思い出すきっかけになった。

 

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曖昧な記憶

 最近昔の事が、なかなか思い出せない。特に風景。

高度成長期に育ったためか、ずいぶん街の風景が変わってしまった。

 

 13歳まで、甲子園球場近辺に住んでいた。社宅の二階からは、球場からの歓声が聞こえ

ナイターの明かりが、夜空をこうこうと照らしていた。

甲子園球場のすぐそばには、阪神パークがあった。私の世代の思い出深い場所だ。

通っていた小学校の恒例で、毎年阪神パークでの写生大会があった。

阪神パークは当時、動物園と遊園地を兼ねていた。

絵心のない私は写生などそっちのけで、遊びまわっていた。

ただこれには少々理由があった。

小川君という友達がいて、彼は必ずといっていいぐらいに入選するほど絵がうまい。

彼が動物を見て絵を描き上げるのに、約1時間ぐらいかかるのだ。

私は彼が描きあげた絵をみて、それを模写するのだ。

そのかわりと言ってはいけないのだが・・・・・園内の何処に誰がいるかの情報を教えてあげるのだ。

彼はお目当ての女の子のところにいって、それとなく絵のアドバイスをするのだ。

アドバイスされた女の子も、なぜか入選するのだから、びっくり。

 

 とにかく阪神パークは、当時一大レジャー施設だった。

戦前には水族館もあったようだ。

ジェットコースター、モノレール、観覧車など、初めて乗った場所だ。

デラックスプールは画期的だった。波がたつのだから。

ボーリング場もあった。私のビリヤードの初体験もそこだ。

 

 レオポン(ヒョウとライオンの子供)で大ブームがおこった。(賛否両論だったが)

その後は住宅展示場になり、震災後閉園。

今は、「ららぽーと甲子園」になっている。

 

 阪神パークの横には路面電車が鳴尾浜まで通っていた。10円だったかな。

鳴尾浜の釣り堀に、よく行ったものだ。

 

 ふう。記憶はあるが風景が・・・・・出てこない。

写真でもあったらなぁ。 少しさびしさを感じる。

 

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体操競技 Ⅲ

 体操=コマネチ

クラブ活動で体操競技を選んだ私の世代の人にとって、彼女は強烈な印象を与えた。

 

なぜそんなに印象に残っているかと言うと、1976年のモントリオールオリンピックでのあの・・・・・

競技種目はたしか・・・平均台だったと思う。彼女が演技を終えてもなかなか点数が表示されなかった。

そして点数の掲示板に・・・「1.00」が表示されたのだ。どよめく観衆。 1点の表示。

TVのアナウンサーが、「これはどういうことでしょう?????」と慌てていた。

すぐさま館内アナウンスが流れたようで、従来の電光掲示板では、「9.99」までしか表記できず

「10.00」を仕方なく、「1.00」と掲示するしかなかったのだ。

オリンピック史上初の「10点満点」!!!!!

 全世界が驚いたのはそれだけではなかっった。なんと、なんと次の種目・・・段違い平行棒でも

「10.00」の満点を出したのだ。

 14歳の少女 ナディア・エレーナ・コマネチ 「白い妖精」の誕生だった。

現在では、16歳からしかオリンピックに参加できないので、この最年少記録は破られることがない。

 

 ただその後の彼女の人生は、大変だったようだ。

両親の離婚やコーチとの不仲やらでストレスがたいへんだったのだろう。

なにかの大会での彼女は体重がそうとう増え、演技にも正確さを欠いた。

 

1980年 モスクワオリンピック

ソレンのアフガン侵攻に西側諸国が猛反発。アメリカ以下日本も不参加を表明。

深夜にしか流されない録画画像で、コマネチをわずかにしか見れなかった。

その後あまり彼女の動向は伝えられなかったが、アメリカに遠征した時、同行のコーチが亡命。

「コマネチ亡命説」が新聞の一面を飾った。

 

1989年「ルーマニア革命」直前にアメリカに亡命。

ルーマニアの独裁者 ニコラエ・チャウシェスク大統領の公開処刑の映像は、世界を驚かせた。

亡命先でその映像をメディアから見せられた彼女は、無表情で答えていた。

「過去は忘れたい。」と。

 

 「白い妖精」 ナディアコマネチ

忘れられない体操選手だ。

 

 

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体操競技 Ⅱ

 体操競技に興味を惹かれたのは、1968年のメキシコオリンピックだった。

中学生になった私は、クラブ活動に体操部を選んだ。その年の夏だった。

 

 メキシコオリンピック 日本は高度成長期のスタート時期だった。

すべての競技に日本国民が多くの期待を持っていた。色々な出来事が起きた。

 

○ 両ドイツの統一チームが参加

○ ドーピング検査の開始

○ 走り高跳びで背面跳びで世界記録 以降背面跳びが普及

○ 男子走り幅跳び 8m90の世界記録は現在も破られてない。(高地だったためと言われている)   

○ 男子陸上競技の表彰台で、米国の2選手が黒人選手の象徴の黒手袋を掲げた。ブラックパワー

  を世に問うた。(後に永久追放されてしまったが)

○ 双子の三宅義信・義行兄弟が、重量上げで金・銅メダルを同時獲得

○ マラソンで君原健二選手が、銀メダル獲得 前回東京オリンピックで円谷幸吉選手が、最後の

  トラックでの一周で抜かれ、銅メダルになった。残念ながら、後日自ら命を絶った事件があったの

  で、日本の人たちはみんなそれが過ってた。 裸足のランナーアベベ選手の途中棄権。(東京

  オリンピック金メダリスト)

○ ベラ・チャフラフスカ 四つの金メダル

○ 釜本選手の活躍で、アジアで初のサッカーメダル獲得 銅メダル

 

 等など、記憶に残っていることが色々ある。

そんな中、男子体操が団体オリンピック三連覇を果たした。

遠藤幸雄・加藤澤男・加藤武司・監物永三・塚原光男・中山彰規選手たちだった。

現在でいうところの、内村航平選手的な存在が、加藤澤男選手だった。

つり輪からダブル宙返りで降りる写真が掲載され、綺麗に膝を抱え、つま先の甲がしなり指先まで

伸びていた。美しさの象徴と絶賛された。

 

 遠藤選手は以前にも掲載したが、私の大学の教授で卒論の担当教授。

塚原選手はこの後、跳馬で塚原飛びと言われる技を開発。鉄棒では「月面宙返り」をあみだす。

選手の名前が付けられる技は、体操競技では名誉なことだ。公式競技で世界で初めて披露し

認められるとその名がつけられる。 これを称して、「ウルトラC」と呼ばれていた。

たぶんだが・・・ 当時は10点方式だったのだが、塚原選手が10点満点を数度出したはずだ。

ただ・・・のちに世界を驚嘆させた10点満点常連選手がいる。 妖精 ナディア・コマネチ 完璧・精密

・機械・無表情・・・ 「かんぺき~ コマネチ」はギャグにもなったほどだ。

 

 美しさとアクロバット的技術の追求は、この時代から始まった気がする。

 

 

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体操競技 Ⅰ

 今世界体操選手権が注目されている。

中学、高校と少々体操をかじってきたが、本当についていけない。

 

器械体操に最初に触れたのは・・・小学1、2年生だったと思う。

父の仕事関係で、西宮の某女子大に連れていかれた。

広い運動場に黒山の人だかり。

グラウンドの真ん中に、平均台が設置されていた。

何人かの挨拶があった後、金髪の女性が現れた。

 

「本日は特別に先の東京オリンピック女子体操選手権において、見事に個人総合、平均台、

跳馬で金メダルを獲得された、ベラ・チャスラフスカさんをお迎えいたしました。」(こんな内容だった

と思う。) 万雷の拍手。

ベラ・チャスラフスカ チェコスロバキア(現チェコ) 「体操の名花」と言われた人だ。

数分後 平均台の演技が始まった。息をのんでみんなが見ていた。

ところが・・・グランドに突然砂埃が舞い上がり、彼女が平均台から落下してしまった。

苦笑いの彼女。身振り手振りで何か言っていた。

もう一度平均台に上がり、今度は最後まで演技をされた。

そしてマイクを取って・・・・・

「初めての野外での演技でした。バランスを保つのは大変。ですがいい経験をしました。

国に帰ってもたまには屋外で練習してみようかしら。」と言う内容だったと後日の新聞で父が教えて

くれた。

 

 とにかくきれいだった。

 

四年後、メキシコオリンピック。 

1968年 チェコスロバキアは、「プラハの春」が起こる。民主化運動だ。

彼女はこの民主化運動に賛同していたため、出場は無理だろうと言われていた。

しかし何とか出場が認められた。そして・・・

女子の競技種目は、床、平均台、跳馬、段違い平行棒の四種目。

なんと平均台以外と個人総合で金メダル。さらに、種目別の平均台、団体総合で銀メダル。

すべてにおいて、メダルを獲得したのだ。

 

 体操競技の技術進歩は凄まじい。後年彼女が苦言を呈している。

「男子体操は、力強く美しく。女子体操は、優雅に美しく。アクロバット的な演技は少々・・・」と。

 

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モダンダンス

 ジーンケリーやアステアに憧れて、ミュージカルの世界に飛び込んだのだが、

一体何をすればいいのか分からず、取りあえず勧められるままに、バレエからはじめた。

それと同時進行で、ミュージカルのクラスがあった舞台芸術学院の夜間部にも通い始めた。

そこで初めてモダンダンスのクラスを受ける事になった。

 

 ダンス系は他にクラシックバレエとジャズダンスがあった。

いずれまた詳しく書くが、ジャズダンスのクラスの先生は、堀内完ユニークバレエ団の先生だった。

 

 さて、モダンダンスとは・・・??? 初めての体験。

スラットした体型、眼光鋭い先生だった。 厚木凡人先生。

レッスンが始まってびっくりしたのは、最初から最後まで音楽がかからないのだ。

しかも呼吸法が伴うレッスンで、ヒューとかブォーとか口にするのだ。

基礎的要素はバレエだ。しかし動きは何だか徒手体操みたいだった。

 

 他のモダンダンスも同じなのかと思い、違うスタジオのレッスンにも飛び入り参加してみた。

先日お亡くなりになった、アキコ・カンダ先生のスタジオだ。

ううううう・・・・・体が思うように動かなかった。

アキコ先生が師事した、マーサ・グラハム(本名 マーサグレアム)の名前は聞いた事がある。

当時は結構なブームだった。

 

 時代はコンテンポラリーに。モダンダンスとコンテンポラリーはやはり似ている。

ただ、表現の方向はきっと大きな違いがあると思うのだが、クラシックバレエを重視している

点では、体の使い方は似ている。

 

 モダンダンス 芸術家の印象が強い。

アキコ・カンダ先生は、まさしく芸術家だったように思う。

 

 

 

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七草

 七草と言えば、「七草粥」。一月七日に食べる風習がある。

その年の健康を願ってとか、おせち料理を食べすぎて少々傷んだ胃をやすめるためとか。

 

 中学生の国語の授業だったと思う。先生が突然言い出した。

「今度の中間テストでは、七草の問題を出します。」と。

「国語の試験で?」

わけが分からなかった。自宅に帰って母に尋ねた。

「お正月過ぎたら食べるでしょう。七草粥。あれを全部覚えておいたらいいんじぁない。」

「でも国語やで。」

「あ~・・・じゃあ・・・漢字で書けってかも?」

 

 母のヒントをそのまま信じて、取りあえず覚えることにした。

 

せり・芹 なずな・薺 ごぎょう・御形 はこべ・繁縷 ほとけの座・仏の座 

すずな・菘 すずしろ・清白

 

なんだかになれない?漢字もあったのだが、とんかく丸暗記。

ところが・・・出題されたのは・・・

 

 秋の七草を漢字で書け。

えっ~ 秋の七草? 一つもかけなかった。

 

おみなえし・女郎花 おばな・尾花 ききょう・桔梗 なでしこ・撫子

ふじばかま・藤袴 くず・葛 はぎ・萩

 

よくよく考えてみれば、秋の七草の漢字は覚えられる漢字ばかりだ。

テストはさんざんだったが、秋にも七草があることを知った。

そして授業で先生が、「もともとは秋の七草は食べたりするものではなく、

眺めて楽しむものです。」と。

なるほど。

 

母は、「ざんねんでした。」 だって。

 

 

 

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秋の味覚 山

 残暑もそろそろ終わりになってきた。今年も昨年同様、厳しい暑さだった。

今年の夏は汗を大量に流したので、おかげで体重も3キロ落ちた。

例年なら、六甲の山々が紅葉し始めるのだが・・・・・

紅葉が始まると思いだすことも決まっている。

「マッタケ狩り」 今年は残暑のため不作らしい。

「マツタケ」ではなく「マッタケ」

 

 西宮市は南北に長い。

そのためか、幼いころから家族で遊びに行くのはほとんどが市内。

春は夙川でお花見。海は西宮浜。秋は六甲。冬も六甲(正確には神戸市だが。)

 

 西宮の山々が住宅地になる前は、今の自宅から数分の川で飯ごう炊飯をしていた。

同じように甲山を少し登った山で、栗拾いやマッタケ狩りができた。

季節は違うが、たしか・・・タケノコ堀もしていた記憶がある。

 

 先日アルバムの整理をしていたら、そのころの写真がでてきた。

マッタケ狩りをしている様子が。なんとなんと、マッタケですき焼きをしている。

手にしているマッタケが、幼い私の顔ぐらいある。

なんと豊かな時代だったのだろう。

 

 いつ頃からかは分からないが、季節に関係なく年中たべられる物が多くなった。

ブドウ、栗、梨、さつま芋、椎茸・・・

ゆっくり味わって食べてみよう。

 

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十年一昔

 「十年一昔」 年を取るとよくこの言葉が出てくると、ある研究者の方が言っていた。

最近この言葉がよく出てくる私は、「歳を取った」実感がある。

しかし反対に、感じ方ひとつで異なってくることがある。

 

 母が亡くなって二十年たった。と言うことは、三女が生まれて二十年だ。

三女が生まれたあくる月に、母は他界した。

「おふくろが死んで二十年か。ずいぶんとたつなぁ。」

「三女が生まれて二十年か。あっと言う間だったなぁ。」 と言う具合に。

 

 阪神淡路大震災は、今から16年前。

世界中を恐怖に陥れた、アメリカ同時多発テロは、10年前。あれから10年か。

当時貿易センタービルに飛行機が衝突する映像が、ずっと流れていた。

最初は何があったのか分からなかった。あり得ない現実。

そして二機目の飛行機が・・・・・

さらに・・・数十分後 アメリカ国防省 ペンタゴンにも旅客機が。

記憶から除けないたいへんな出来事だ。

 

 十年前の楽しい思い出はと考えてみたが、すぐには出てこない。

十年一昔と言う例えは、それこそ昔の話しになるが、多くはファッションのことを言っていた。

私の世代で言えば、パンタロン?長髪?Tシャツ?から、裾の細いズボン、リーゼント、ボタンダウン

と、IB時代へ。 ベルボトム、アフロ・・・・・ニュートラ時代へ。

大学を卒業したころに、IBが再来した記憶がある。

 古い話だが、学校の教育方針も十年一区切りだった。

姉とは同じ教科書だったが、一年後輩の教科書は、新シリーズになっていた。

 

 十年後ははたして何をしているのだろう?

 

 

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花火大会

 この夏は、震災の影響で催事ごとがかなり自粛された。

お祭りやイベントや、花火大会等など。

 

 花火大会を初めて見に行ったのは、甲子園球場だった。今はもうやってないのかなぁ?

ただその思い出は、少々さびしい思い出だ。

父がどこから手にしてきたのかは分からないが、

「甲子園球場の花火大会行くぞ! 特等席や!!!」

何度か野球を見に行ったことがある。いつも外野席。

せいぜいアルプス席(高校野球の各校が応援する席)だった。

「バックネット席やぞ。!!!!!」

私も飛び上がって喜んだ記憶がある。ホームの真後ろだ。

 わくわくしながら始まるのを待っていた。さぁいよいよだ。

球場のライトが落ち、一発目の花火が ド~ンと打ち上げられた。

ヒュルヒュル~ バ~ン ド~ンと。 がしかし・・・・・

私の目の前には、花火のかけら?落ちてくる燃えカスしか見えない。

「ええっ!!! 」

そして、二発目、三発目と次から次へと打ち上げられていく。

「ぜんぜん見えへんやん。花火」

 甲子園球場のネット裏は、銀傘といわれる大きな屋根があるのだ。

花火は、その銀傘の上で爆発していたのだ。

野球観戦では、ネット裏は雨も気にならないし、うまくいけばTVにも映る。

だが、花火大会では最悪の席だったのだ。

同じ思いをしたお客さんが怒りだした。

「詐欺や! 金返せ! ・・・・・」と。

 

 毎年甲子園の花火大会は、家の二階から眺めていた。少々遠いが、きれいだった。

後日父が今度は、宝塚の花火大会に連れていってくれた。

武庫川の川べりから眺める花火は、実に綺麗だった。ただ・・・

当時は虫よけスプレーなどなく、蚊に刺されて大変なおもいをした。

 

 

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平吉毅州先生

 週末、敦賀に行ってきた。子供たちと一緒に合宿をした。

今年11月の演目は、島根の子供ミュージカル、「あいと地球と競売人」の抜粋だ。

以前にも書いたが、恩師 山田卓先生が監修、総合演出、総合振付をされた作品だ。

作曲は、平吉毅州先生だ。

 

 何年前になるのだろうか。島根県にお手伝いに行った時だった。

平吉先生と夜ご飯をご一緒した。かなり早いペースでお酒を飲まれて、少々・・・・・

音楽の話をお聞きしたかったのだが、終始遊びの話をされていた。

「卓先生はほんまにまじめやなぁ。君は?」と、突然聞かれた。

「あっ・・・はい。そこそこやんちゃも・・・卓先生ほど一途ではありません。」

「そうか。まだまだ若いから感じないだろうけど、60を過ぎると体力的なものはどうしょうも

ないから、せめて気だけでも若くありたい。そのためには・・・やっぱり若いおねえちゃんが

一番ええ。」

「あっ・・・そうですか。」

 

 生意気を言うようだが、平吉先生の曲は 「ハツラツ感」がある。

「あいと地球と~」作品は、本当に心に、体に元気を与えてくれる。

今回敦賀の子供たちからも感じた。

普段なら、「口を開けて、元気よく歌って!」と叫ぶのだが、自然と口が開き、目を輝かせて

歌っていたのだ。もちろんストーリーも大切なのだが、音楽の持つ力はかなり重要だ。

とくに子供たちは独特の感性があり、それがうまく引き出されていく。

 

 本番が少し楽しみになってきた。

 

 

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全国高等学校総合文化祭

 夏の甲子園大会が終わった。

運動部には、インターハイ、国体と認知された活躍の場がある。

文化部にもあることはあるのだが、あまり知られていないのが現状だ。

 

 以前私は一年間だけ、高校で非常勤講師をしていたことがある。

ある時、演劇部の顧問の先生に質問された。

「広瀬先生 演劇の大会で優勝を狙うには、どんな演目がええの?」と。

突然の質問の意味がわからず、「う~ん・・・難しい質問ですね。」と口を濁した。

すると、

「運動部の生徒たちは、それぞれの大会に目標があって・・・今度はベスト8を狙おうとか

県大会までは行こうとか・・・演劇部の生徒にも、なにか目標を持たせてやりたいねんけど・・・

演劇の大会って・・・ほら・・・なぁ・・・」と、口を濁した。

当時の演劇の大会は、はやりの作家の作品に偏ったり、審査員の作家の作品を上演しないと

なかなか入賞できないなどと、思われていた。事実は定かではないが。

すると、

「全国高等学校総合文化祭があるの知ってはる?その大会には、合唱、器楽・管弦楽や

美術・工芸、囲碁・将棋や郷土芸能、詩吟等などいろいろあって、その中に演劇部門もある。

確かに、全国高等学校演劇大会なんやけど、どうやら審査員がいろんなジャンルの人がおるらしく

一度エントリーしてみよかと思うねんけどね。」

 

 全国高等学校総合文化祭は、1977年から始まっているらしい。

 

よくこの世界では、「チケットが売れる演目を制作しろ。」と言われるが、それがなんなのかわかれば

苦労はしない。 

「優勝できる演目」 答えに困った。

そのとき、ある言葉が頭に浮かんだ。劇作家がよく口にする言葉だ。

「思いを伝えるには、言葉にしなくてはならない。」

そこで・・・

「生徒たちと今回は何を伝えたいか話し合って、オリジナルで勝負したら。」と。

「自分たちで書くの?」

「高校生の普段の生活を芝居にしたら?」

「まぁ一つの手やなぁ。」

 

 未だに芝居の良しあしはわからないが、「何かを伝えたい」と言う気持ちは大切だと思う。

 

 

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テレビⅢ

 アノログからデジタルへ。テレビ番組をいろいろ思い出していたら・・・

先日「マエタケ」こと、前田武彦さんが亡くなられた。

なんと言っても印象深いのは、「巨泉・前武のゲバゲバ90分!」だ。

ハナ肇さんの、「アッと驚く為五郎」のギャグは忘れられない。

オープニングがなんとなく粋で、巨泉・前武さんがシルクハットにステッキを持って

なんとなくアメリカのコメディ番組風なのだ。

 

 TVのバラエティ番組と言えば・・・やっぱり・・・

日曜日の夕方の 「シャボン玉ホリディ」だった。

ザ・ピーナッ ハナ肇とクレージーキヤッツ ギャグと言う言葉を初めて耳にした。

これもまた、オープニングが印象に残っている。

「牛乳石鹸提供 シャボン玉ホリデー」の後に、牛の「モ~」と言う鳴き声が入るのだ。

貧乏家族のお涙頂戴芝居から、なぜかノー天気な植木等さんが登場して、

「お呼びでない・・・これまた失礼致しました。!」がオチ。定番だった。

 この番組の後、数年経って、「ゲバゲバ~」が始まったと思う。

 

 白黒からカラーへ。そして歌番組が全盛を迎える。

 

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TVⅡ

 世代によって影響されて番組は、さまざまだと思う。

いまの時代のように、一家にTVが何台もあったわけではないので、男の子でも

女の子でも見る番組が同じだった気がする。

「隠密剣士」「七色仮面」「少年ジェット」「てなもん屋三度笠」 もちろんどれも白黒。

「鉄腕アトム」「鉄人28号」「宇宙少年ソラン」「月光仮面」

海外の番組も限定されていた。

「ララミー牧場」「名犬ラッシー」

 

 NHKの朝ドラと日曜日の大河ドラマは、家族全員で見ていた気がする。

特に印象が残っているのは・・・・・

「放浪記」の作家、林芙美子さんの一生を描いた、「うず潮」だ。

林芙美子さんの役を、林美智子さんが演じた。関西新劇界からの起用で話題になった。

林芙美子さんのことが何故印象に残っているかと言うと、祖母の口癖が耳に残っているからだ。

母方のおばあちゃんの口癖は、

「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき」だった。(長生きしたんだけど)

これは林芙美子さんの有名な言だ。

 

 久しぶりに話が飛ぶ。

 

NHKの朝ドラと大河ドラマはほぼ同時期に放送されていた。

大河ドラマの第一回は、「花の生涯」 そして二作目が、「赤穂浪士」だ。長谷川一夫さん主演。

おじいちゃんはこの作品にハマっていた。

え~と・・・・

 

 おばあちゃんが、「花の命は短くて~・・・・・」を言い出すと、すかさずおじいちゃんが・・・

「風さそう花よりもなお我はまた 春の名残を如何にとかせん」と言うのだ。

浅野藩主 浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)辞世の句だ。

 

おじいちゃんとおばあちゃんは、幼い私になにを言いたかったのだろう?

まぁ二人の・・・好きな言葉?句?は、耳に残っている。

これもTVの影響かもしれない。

 

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テレビⅠ

 いよいよ地デジ化だ。あと何年とか、あと何カ月とか言っていたのが・・・・

 

昭和14年 NHKが実験放送をしたのが始まりだそうだ。 

翌15年には、やはりNHKが日本初のテレビドラマを放映した。

物心がついた頃の番組で印象に残っているのが、大相撲だ。たしか・・・

大阪出身の朝潮太郎を、親が応援していたのを覚えている。

当時横綱には、若乃花(若貴兄弟の伯父さん)がいて、なかなか勝てなかった。

次世代には、柏戸、そして大鵬だ。

国民みんなが好きなものとして、あのことわざになった横綱だ。

 巨人 大鵬 たまごやき 

 

NHKで放送された番組がやけに残っているのは、民放がまだあまり無かったからだと思う。

「ものしり博士」「チロリン村」 

チロリン村のあとが、「ひょっこりひょうたん島」だったと思う。どちらも人形劇だ。

ドン・ガバチョが印象的で、その声を藤村有弘さんがやっていた。子供心に彼の名を覚えていた。

そしてもう一人。あのころから覚えている名前がある。

それは・・・ 井上ひさし。タイトルの最初に出てくるのだ。

 原作 いのうえひさし と。

後に井上ひさしさんの名前を意識したのは、やっぱりテレビだった。

 「忍者 ハットリくん」だ。 

演劇界に入るまで、井上ひさしさんは、私にとってはテレビ界の人だった。

 

テレビで育った世代だ。少し思い出してみることにしょう。

 

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海の日

 国民の祝日 海の日

制定されたのは、平成7年 施行されたのは、平成8年7月20日だった。

はっきりと覚えている。何故かというと・・・・・

平成8年8月8日が会社を立ち上げた日だからだ。

右も左もわからないまま、書類をもって走り回っていた。やっとあと少しで全てが整うと思って

いたら、なんとその日が祝日で・・・・・

 「いったい今日は何の日?」と。 それが 海の日だった。 「ふぅ~」

 

 幼い頃の海と言えば、須磨海岸。だが一時期泳げなくなった事があった。

高度経済成長のツケからか、須磨の海がひどく汚れ、海水浴場が閉鎖されたのだ。

 

 高校の水泳実習で日本海に行った。どこだったか忘れたが、とにかくショッパイのだ。

数時間泳いでいると、唇が腫れてくるほど塩分がきついのだ。

水泳実習の仕上げは、遠泳だ。4キロだったと思う。

四列縦隊で泳いでいく。私はなぜか先頭だった。

先頭の先生がペースをきめて泳いでくれるのだが、80名が一斉に泳ぐため、トラブルがおこる。

足がつる者、海水を飲んでしまう者、暑さに参って沈む者。

そのたびに立ち泳ぎで待っているのだが、これがまた辛いのだ。

 「おい、今のうちに出すものだしとけよ!」 突然先生がいったのだが、「だすもの?」

立ち泳ぎしているうちに、小のほうを済ませろと言うのだ。

「えええええ!!!!!」

チャレンジはしたが、結局できなかった。

 

 もう海水浴に行くことはないと思う。だが、目の前が海なら、この暑さに負けて・・・かも。

 

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猛暑?

 今年も猛暑になるのだろうか?世の中は節電で大変だ。

 

昭和30年代前半 わたしの記憶では、我が家の冷蔵庫は電気冷蔵庫ではなかった記憶が。

毎朝、氷屋さんが氷を配達してきて、母が冷蔵庫?の上の段に入れていた記憶がある。

あれは電気冷蔵庫だったのだろうか?

 

 夏の暑い日の思い出は、打ち水、風鈴、スイカ、蚊帳、ぶたさんの蚊取り線香入れ・・・・・

特別暑い日には、氷屋さんが持ってきた氷をタライに入れ、母が団扇で扇いでくれた。

扇風機よりヒンヤリした風がくるのだ。

幼いころ京都の母の実家では、夏の夜は怪談話しで盛り上がった。

そのあとはきまって皆で花火。

 

 節電の世の中。少し昔を思い出して、対策を練ろうと思う。

 

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 先週は日本にとって嬉しいニュースが二件もあった。

小笠原諸島と平泉が、世界遺産に認定された。

 

 またまた学生時代の話しにるが・・・・・

東京芝の竹芝桟橋から小笠原諸島行きの船が出る。確か・・・一日がかりだったと。

大学の友人が彼女と行くと言うので、見送りにいった。

すると港には大きな横断幕が張られていた。

「小笠原諸島日本に返還20周年」と。

沖縄返還は、1972年 昭和47年だ。高校入試問題に出たので、よく覚えている。

それよりも4年前に小笠原は返還されていたわけだ。まったく記憶になかった。

 

 そして、平泉。

10年以上前に劇団の演目で、「義経」を現代版にして取り上げようと台本を書いた。

奥州平泉 一度訪ねたいと思っていた場所だ。

年末の「ゆく年くる年」では、「中尊寺」の中継がある。神秘的な土地だ。

 

 世界遺産には、文化、自然、複合、危機遺産と分かれているようだ。

文化遺産には、姫路城、原爆ドーム等などで、ここに平泉が加わる。

小笠原諸島は、屋久島、知床と同じで、自然遺産の分類のようだ。

 

久々の明るいニュースだった。

 

 

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卒論

 探し物をしていたら、とても懐かしいものが出てきた。

「卒業論文」の下書き。 

教育実習のときにも触れたが、生徒に頼んで実験をしたのだ。

「腕立て前方転回の一考察」

写真が何枚も出てきた。短パン姿の私だ。場所は大学の体育館。

今ほどカメラの性能はよくないため、多少ブレている。

どうやって撮ったのか覚えてないが、連続写真もあった。

いい例と悪い例があるのだが、悪い例はどこかわざとらしくギコチナイ。

いかに原稿用紙の枚数を増やすかばかり考えていたので、やたらスペースがある。

 

 提出日の前日に教授に持っていったのだが、赤のサインペンでチエックを入れられた。

一日でやり直さなければならなかったため、写真を剥がした跡が残っていた。

徹夜で作業していたときに、ふと考えた。

「卒業したらなにをするんだっけ?」と。

周りはみんなそれぞれ就職が決まっていた。ほとんどが教師だった。

「明日卒論を受け付けてもらえなかったら、留年してまたレッスンすればいいか。」と呑気に

考えていた気がする。

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残像

 八戸、盛岡、釜石、北上、仙台、福島、いわき、日立。

ミュージカル作品の公演地だった。青森から南下していく。

前にも書いたが、当然新幹線など開通してないころだ。

 

 先日TVで被災地の映像が流れた。交通網の整備がある程度整ったらしい。

新幹線、在来線等など。ホームに入ってきた電車。見たことが、いや乗った記憶があった。

 

急行 天の川 急行 きたぐに  山形県鶴岡から秋田県本荘に向かう電車。

急行 おが  急行 はやちね  秋田から大曲~盛岡~釜石に向かう電車。

 

さすがに車窓からの眺めは記憶にないが、長閑な風景だったと思う。

 

阪神大震災後、復興した神戸を見て、なぜか違和感があった。頭に残っている風景。

倒壊したビルの跡地に同じ高さのビルが建ったが、なにか違うのだ。当たり前だが。

 

早くライフラインが整ってほしい。がれきの山の映像は、心が苦しい。

 

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矛盾

 外はすごい風。台風が接近?しているようだ。

日本は地震と台風が多いらしい。台風と言えば・・・・・

またまた30年も前の話だ。あれはたしか・・・・・

 

 「アンデルセン物語」の公演の時だった。前日から大阪に入り、準備をしていた。

夕食を済ませ、早めに宿舎のホテルに戻った。部屋に戻り、TVを付けて驚いた。

台風の影響で、各高速道路が通行不可になっている。

公演の道具や衣装を乗せたトラックは、今夜到着の予定なのだが・・・

 数時間後部屋の電話が鳴った。なんだか嫌な予感がした。

トラックが立ち往生して、動かないらしい。明日は中止か?

東京から連絡が入り、衣装はなんとか降ろして、タクシーで運ばれてくるらしい。

高速道路上で衣装だけ荷降ろしをしたらしい。大変な作業だ。

さぁ大変。道具が一切ない。知恵を使って手配開始。

私は自分が使う荷車の制作。日曜大工だ。

 

 昔照明などない時代は、ローソクを舞台上に並べていたと聞く。

本物の動物、例えば・・・馬や犬、羊や山羊なども舞台に出ていたらしい。

その時代の苦労を味わった。

 

 なんとか上演できる形にはなったものの、学生演劇にも及ばない。

大きな舞台にセットがなにもないのだから。

一番悩んだのは・・・この日を楽しみに来ている子供たちへの説明だった。

舞台前に飛び出して行き、状況を説明しなくてはいけない。私がその役だった。

いまから何が始まるか期待している子供たちに・・・・・正直に話した。

台風で道具や衣装を積んだトラックが着かなかった事を。すると何人かの子供たちが、

「がんばれ!」 「大丈夫やでぇ」と。 ウッときた。

子供たちから力を貰って、オープニングの歌が始まった。

 

  ようこそみなさん やぁこんにちわ~ ・・・・・・・・・・

  ライトに音楽用意はいいか 道具も衣装も支度はいいぞ~・・・・・・

この日は凹んだ。

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旅手帳

 古い資料を整理していた。すると、懐かしい手帳が出てきた。

「旅公演手帳」 全国公演の旅手帳だ。

公演日時、場所、開演時間、主催者、宿泊ホテル、移動手段等など。

手帳は二冊貰える。本人用と家族用だ。一冊を実家に送った。

私にとっての初旅公演だったので、家族に居場所を伝えておくためだった。

今のように携帯電話などないころなので、連絡方法は、公演会場か宿泊ホテルに限られていた。

 

 仙台のホテルに父からの手紙が届いていた。

「全国公演 おめでとう。・・・・・・・・しっかりがんばりなさい。・・・・・・・それと・・・・

せっかくだから、時間があれば旧跡を訪ねなさい。塩釜、松島~石巻、平泉~・・・

おくの細道だね。・・・・・」と。

手帳にはメモ欄があり、私はそこに東北三大祭りの日程を書き込んでいた。

「青森のねぶた」 「秋田の竿燈」 「仙台の七夕」 

今この地域ではどこも大変だが、ニュースで「三大祭り開催」と報道されていた。

当時は日程が合わず、(公演?仕事?当たり前だが)父の勧めも、三大祭りも行けなかった。

 

 父から届いた手紙はみつからないが、「東北三大祭り」も「おくの細道」も、復興後に

訪ねてみたい気がする。

 

 

 

 

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名店

 

 最近のグルメ番組を見ていると、時々「おやっ」と思う事がある。

どこかで見たことのある店が度々紹介されている。

先日、鰻の美味しいお店が紹介されていた。店の名は確か・・・「淡水」だったと思う。

ずっと思い出そうとしていたのだが、なかなか思いだせずにいた。

 

 話がひさしぶりに飛ぶ!

 

 敦賀の子供たちに会いに行ってきた。11月にまたまた舞台がある。

今回は、島根県で制作された市民ミュージカル、「あいと地球と競売人」を、子供から

お年寄りまでみんなで挑戦する。全編は少々無理があるので、歌を中心に作品を立ち上げる。

今回も夏には合宿がある。前回は三方五湖で合宿をした。

そんなことを考えながら車を走らせていたら、看板が目に入ってきた。

 鰻の名店 「淡水」と。

おぉ そうだ前回の合宿の時に御馳走になったのだ。敦賀だったんだ。

 

 また機会があったら行ってみようと思う。

 

 

    

 

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勇気をもらった人

朝刊をみてると悲しい記事が目に飛び込んできた。

  セベ・バレステロス氏死去 54歳 

 スペイン出身のプロゴルファーだ。

76年の全英オープンは、いろんな意味合いがあった。

それまでのゴルフ界は、帝王ジャック・ニクラスとライバルの、アーノルド・パーマーの

一騎討ちが多かった。後継者には、トム・ワトソン、ジョニー・ミラーなどがいた。

そんな中、彗星のごとく・・・19歳の若者、セベが現れた。

同じ年だった私は、スペイン人特有の情熱的なゴルフに惹かれた。

世界の頂点に立つ名だたるゴルファーに臆する事なく、吠えまくっていた。

残念ながらその大会は2位だったが、世界にバレステロスの名をとどろかせた。

 

石川遼選手と同年代の若者が応援するのとにているが、セベは石川選手とは

正反対の感じだった。とにかく・・・熱いのだ。!!!

彼が何かの対談記事で言っていた。

「私のプレーは時に誤解を招く。それは、時に大声を出すからだ。

だがそれは自然に出てしまうのだ。一生懸命真っ直ぐにゴルフと向かい合う。

このスタイルは変えられない。いや、変えようがないのだ。」と。

若くして頭角を現すと、何かと叩かれる。だがなにも間違ってないと言い切るのだ。

 

「一生懸命真っ直ぐに向かい合う。」   大好きな言葉だ。

合掌 

 

 

 

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スーパーカー

大阪南港にでかけた。いつもなら閑散としている場所なのだが、

今日は黒山の人だかりだった。

鉄板イベント ミニカーの展示会!!! 

最近は、ミニカーと鉄道の展示会が鉄板(必ず人が集まると言う意味)だそうだ。

 

若いころのこの手のイベントで、必ず多くの人が集まったのは、モーターショーだった。

東京モーターショー 晴海埠頭だった。

1970年代 スーパーカーのブームがあった。

デ・トマソ・バンテーラ、 フェラーリー・512、 ランボルギーニ・カウンタック、 ポルシェ959等。

この手の車は、三高と呼ばれていた。 高級・高額・高出力

何度か乗せてもらう機会があったのだが・・・・・

確かに高級であり高額であり・・・・なのだが、乗り心地は・・・う~ん???

高出力なので、かなりのエンジン音がする。爆音に近い。

地面を這うように走るので、道路の凹凸がもろに体に伝わる。

だが確かに美しいし、注目をあつめる。

バブルが弾けたのと同時に、一気に姿を消した。

 

今日は子供たちより、お父さんたちの笑顔が目についた。

  

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スーチャン

キャンディーズがやって来る!!!!! 日大文理学部に!!!!!

 

当時桜上水にあった学舎に、あのキャンデーズがやってきたのだ。

大学祭の目玉イベントだった。

伊藤蘭さんは確か・・・ 日大芸術学部・・・演劇を専攻していた。

姉が日芸に通っていたので、そんな話を聞いた事があった。

 

ホール?講堂? は満杯で、すごい熱気をおびていた。

当時のホールはとても古びた建物だったし、今程警備も厳しくなかったので、

あんがいあっさりと潜り込めた。

もちろん立ち見だったが、前の方で壁にもたれて歌を聴くことができた。

TVや学祭まわりで忙しいはずなのに、ハツラツと元気いっぱいだった。

 

お決まりの挨拶? だったのかもしれないが、

「眠る時間がほしいです。」とランちゃん。「痩せるばっかりで。」とミキちゃん。

そして二人の視線が少しぽっちゃりしたスーちゃんに。爆笑!!!!!

 

55歳 せつない。  合掌。

 

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花粉症?

花粉症。いつからこんな病名ができたのだろう。

私にはながく縁のない話しだったのだが・・・・・

近年目がワサワサ?シバシバ?する。

 

昨日またまた敦賀に打ち合わせに出かけた。

名神高速を京都東でおり、湖西道路をはしるのだが・・・・・

琵琶湖の西を走っていると、フロントガラスになにやらホコリのようなものが。

ワイパーを動かすと、なんと、なんと黄色い花粉が舞う。

 

今林業は海外の安い木材におされて、たいへんだそうだ。

だからなかなか伐採されずにいる。切り倒されても、倒木として野ざらしにされている。

ただ昨日のニュースで、花粉が百分の一になる杉の木が開発されたらしい。

しかし、成長するまでには10年かかるそうだ。

 

麻疹、おたふく、水疱瘡 幼いころに全部かかった。

花粉症は・・・やっぱり・・・病気? ひどい人はたいへんらしい。

 

ベストの対策は、マスクなのだろうか?

 

 

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 第17回 統一地方選の前半戦が行われた。

東京都知事は、石原氏が4選  

大阪では、橋本知事率いる「大阪維新の会」が府議選、市議選、堺市議選に躍進。

 

都知事・・・このフレーズを聞くと、思い出す曲がある。

ソルティー・シュガーの代表作 「走れコウタロー」だ。

当時の東京都知事は、美濃部寅吉氏。 革新知事だ。

東京都主催の公営ギャンブルの全面廃止を公約に掲げ、見事に当選した人物だ。

「走れコタロー」に出てくる台詞?語り?があるのだが、それが美濃部知事の物まねだったのだ。

耳になぜか残ってるいる。独特な口調だった。

 

一度だけ都庁にお邪魔したことがある。

藤本先生に同行して、青島都知事にお会いした。

天井の高い広々とした部屋で、お二人が顔を寄せて話されていた。

「あおちゃん」 「ぎっちゃん」と楽しげに話されていた。

 

今 強いリーダーシップを持つ人が望まれている。

 

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頑張れ!

春のセンバツが幕を閉じた。

高校球児たちは、すぐさま夏に向かって練習を開始する。

勝利した喜びや、負けた悔しさを消化して、また甲子園を目指す。

 

前にも掲載したが、西宮市の小学校、中学校は年に一回甲子園球場で運動会をする。

担任の先生がホームルームで突然話し出した。

「甲子園の由来を知っているか。甲子園球場の名前の由来、知ってる人?」と。

 

今は甲子園球場のH・Pを検索すればわかることなのだが、当時はそんな便利なものは無かった。

 

先生は、十二支がなんちゃら~ なにかとなにかが出会う年だとか~

小学生の私にはあまり興味がなかった。

ただ覚えているのは、この年は縁起のいい年だったと言うフレーズ。

「縁起のいい年?」

クラスの成績優秀な女の子がすかさず質問した。

「縁起のいい年は今度はいつですか?」と。

「60年後だ。」

 

大正13年から60年後。昭和の最後の方の時期だ。それからまた60年というと・・・

 

日本全体が今つらい時だ。だが高校球児の熱さに、笑顔に、悔し涙に救われた人もいる。

「できることをする。」

今私にできること・・・答えが見いだせないのが少々つらい。

 

とにかく、どんなことでもいい。明るい話題に出会いたい。

高校野球や・・・漂流していた犬の救出や・・・

 

がんばれ 日本! 

 

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いのち

  避難所 笑顔のゆりかご

 

こんなタイトルの新聞記事が載っていた。

「避難所で暮らす女性が、出産をおえて赤ちゃんと共に避難所に戻り

お祝いの声と笑顔に包まれた。」と。

大きくなったら自分の誕生日をどう思うのだろう。

 

お母さんの一言に・・・・・

「恵まれた環境で産むことができて本当に幸せ。」

市が妊婦のいる家族専用に避難所として提供した公民館で、他の家族と暮らしていたのだ。

「恵まれた環境で・・・・・」 けっして恵まれているとはだれも思わないのだが・・・

 

お婆ちゃんと孫が救出された。流された家のあたりでアルバムが見つかった。

子供が産まれた。救援物資が届いた。

どんなことでもいい。人々の笑顔が少しでも戻ってくれればと。

 

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長崎大水害

重苦しい一週間。

あらためて津波の恐ろしさを感じた。

 

1982年の夏 子供ミュージカル 「嵐の中のこどもたち」の全国公演に出かけていた。

まじめなこどものグループと、少々いたずら好きなグループは、いつも争い事がたえない。

ある日両グループの親達がこぞって町に出かけた。

とたんに始まる諍い。だが・・・・・

天候が悪化。大雨にみまわれ、村は孤立してしまう。残されたこども達。

食量を集め、なんとか互いに力をあわせて・・・・・だが・・・

 

1982年 7月 長崎で大雨による大水害がおきた。

記録的な大雨で、予測の範疇をこえてしまった。300人ちかくが亡くなった。

一時間の降水量はいまだに歴代最高記録だ。

 

全国公演の公演地に、長崎県があった。

いろんな考え方があり、多くの方々が話し合いを重ねられたようだ。

結果 公演は予定通り上演する事になった。

とはいえ・・・内容があまりにも現実に起きた事と重なりすぎて・・・・・

迷いに迷っていた時、その公演を観劇する予定の子供達からお手紙が届いた。

かいつまんで・・・・

「・・・・・・・・・・・・・・・。この作品の歌を前もって聞いていました。是非みなさんの声が聞きたい

です。一緒にうたいたいです。・・・・・・・・。」と。

舞台人として、望まれるのなら応えるのが使命。

辛い、本当に辛い気持をプロとして徹することにした。

 

     「希望」

 

  心をひとつに 手をつなぎあい 信じる言葉は 希望だけ

  涙があふれて 止まらないとき きらめく星をみつめ つぶやいてみよお

  希望を 希望を 希望を持とを

  ほら ごらん明日が 見えるだろう ほら ごらん明日が 見えてくるだろう

 

長崎県に到着。公演場所は忘れもしない、長崎公会堂。

つい何日か前までは、ご遺体の安置場所だった。

お線香の匂いが残る中、精一杯つとめた。

 

プロ野球、Jリーグ、選抜高校野球、ゴルフ、演芸等など。

今 それぞれの団体が考えているようだ。

選手の気持ちが少し理解できる。

せめて、願いや思いをひとつにして、取り組んでほしい。

 

 

 

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地震

何度か掲載したが・・・ 「地震」

阪神大震災とは違った恐怖を感じた。 津波。

大きな高波を想像していたが、実際はじわじわと流れ込んでくる。

しかも、あっという間に陸地を侵略していく。

津波警報が日本列島中に出ている。

 

「東京都知事選 石原氏出馬」のニュースでもちきりだった報道番組が、

一斉に切り替わった。

時間の経過と共に、悲惨な映像が流れだした。

各局のアナウンサーが必死に伝えている。

海岸付近にお住まいの方々に、「とにかく非難を!津波が来ます。!」と。

阪神大震災の時も、同じように報道されていたんだろうが、それどころではなかった。

 

福島に大学時代の友人がいる。栃木には義弟がいる。東京には娘がいる。

無事であると言う連絡を待つしかない。

 

 

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演出者協会

 日本演出者協会が発足して、50年が経つ。先日その案内がきた。

歴代の理事長は、村山知義氏 千田是也氏、ふじたあさや氏、戌井市郎氏、瓜生正美氏

福田善之氏、そして現在は七代目 和田善夫氏だ。

演劇関係者はだれでもご存じ?の、錚々たる方々だ。

近代の日本の演劇を走ってこられた方々のようだ。

 

  演出者の集い 2011 と言うタイトルで、3月30日 東京本多劇場で開催される。

サブタイトル?が、 演劇を愛する全ての人よ、来タレ! と。

また、こんな問いかけが・・・

  日本の現代演劇はどこに「在り」どこに「向かう」のか?

  二十代から八十代の三世代が集まり、日本の演劇の過去、現在、未来について

  語り合うトーク・スクランブルの一日。

 

ふぅ~happy02 ここまで書いて、なにが言いたかったか、忘れてしまった。

協会員は現在、650名 私など末席の末席に名を連ねているだけだ。

 

演出者、演出家の役割さえまだまだ見えてこない。

演劇を芸術と捉える方々。ショービジネスと考える方々。

 「舞台に関わる事が好き!」は、どちらにも属さないように思われて、きまって言われる。

 「思想、理念がない!」と。

 

歴代の理事長の著書にチャレンジしてみるか。 gawk wobbly sad

 

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「あしたのジョー」Ⅱ

明日のジョー

  サンドバッグに 浮かんで消えた~  で始まる主題歌

このアニメが流行した時期、いろんな話題があった。

一番は、ジョーの声だ。 あおい輝彦さん。元祖 ジャニーズだ。

ジャニーズ解散後の活動として、話題になったようだ。

 

後年、チャミさんこと飯野おさみさんと出会ったとき、意外なことを言われて驚いた。

「広瀬 日大なんだって?」

「はい。文理学部です。」

「へぇ~ な~んだ後輩じゃん。」

聞けばジャニーズのメンバーは、全員 日大芸術学部。

まさかあのアイドルグループが・・・・・と思った。

 

またまた話が飛んでしまうのだが・・・・・

先輩方にいろんな話を聞いていると、以外なところで???が。

ジャニーズが日芸。そして子供ミュージカルの最初の作品 「はだかの王様」の作家が・・・

なんと 寺山修司さん!

寺山さんは一言では語れないので・・・・・とにかく多才で、しかも多くの顔を持っておられる。

なにに驚いたかというと、寺山さんはあの 「力石徹葬儀」の葬儀委員長。

もちろん私の世代は、「天井桟敷」という集団の演劇になんらかの刺激を受けている。

 

今ではインターネットなど便利な時代で、様々な情報が得られるが、当時は先輩からの

昔話しが情報の元になっていた。

 

寺山修司さん 歌人、劇作家、詩人、演出家、小説家・・・・・・

私にとっては、歌人・・演出家・・葬儀委員長・・子供ミュージカルの作家。なんとも理解不能だった。

 

「あしたのジョー」 思い出す出来事がまだまだありそうだ。

 

 

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「明日のジョー」

夜中にTVを何気なくつけたら、なんと 「あしたのジョー」の映画版をやっていた。

幼いころの楽しみのひとつに、週刊マンガがあった。昭和30年代~40年代だ。

そのころのマンガ雑誌は、少年サンデー、少年マガジン、少年キング等など。

サンデーは、「伊賀の影丸」「鉄人28号」 マガジンは、「あしたのジョー」「巨人の星」

キングは、「柔道一直線」「赤き血のイレブン」等が掲載されていた。

 

余談だが、その後「少年ジャンプ」「少年チャンピオン」が発売され、5大少年雑誌の時代がつづいた。

 

話は「明日のジョー」に戻る。

ミュージカルを志して、どの集団に所属しょうかと迷っていた時期に、ある劇団を見にいった。

場所は原宿。竹下口を渡ったすぐのビルだった。劇団名は、「東京キッドブラザーズ」。

声はガラガラなのだが、とにかく熱いのだ。そんなに広くないスペースでも、全力で歌い、

踊っているのだ。

後で知るのだが、そこには若き日の、柴田恭平さんも出演されていたらしい。

その後、新宿コマ劇場、郵便貯金会館などで、何度か公演を見に行った記憶がある。

 

話しが・・・・・

「明日のジョー」で力石が死んだ時に、ある人が力石のお葬式をしたのだ。

当時は私は中学生だったので、ニュースでしか見てないのだが、主催者の名前だけは、はっきりと

覚えていた。なぜだかわからないが・・・・

   東由多加さん。 そう、東京キッドブラザーズの創設者だ。

公演を見に行った時に、パンフレットで見つけた。

芥川賞作家 柳美里さんの「命」がTVドラマになった。東さんがモデルだ。

 

「明日のジョー」には、いろいろ思いでがある。

次回も少し書いてみたい。

 

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またまた雪

先日も朝から庭に雪が積もっていた。

初めて雪のはなしを聞いたのは、父からだった。

石川県金沢市津幡町で育った父は、幼い頃から家の前でスキーをしていたらしい。

昭和の初期 当然板は竹。ストックも竹。長靴を竹に結び付けて滑っていたらしい。

 

以前にもスキーに関しては掲載した。

初スキーは、六甲山の人口スキー場。母に連れられて・・・小学二年生。

それからは、関西?のスキー場に、毎シーズン出かけた。

神鍋だったかなぁ。ゴルフ場が冬はスキー場にかわるのだ。

サンケイバレエ、琵琶湖バレエとも呼ばれていたような。あとは・・・

ハチ北高原、八吹山?

 

北海道や、東北、信濃、信越のスキー場に行く度に、なにか驚きがあった。

熊に出会った。雪崩に巻き込まれた。遭難しかけた。事故にあった。等など。

 

福島県猪苗代湖スキー場に行った時だ。

その日は朝から外は吹雪。視界も最悪。それでも「町営リフトは動きます。」との案内。

「行くっしかないでしょう。!」 友人たちと滑りに行くことにした。

もともと私は、ゴーグルをしないので、ほとんど前が見えてなかった。

吹雪の中を数時間滑った。すると友人が、

「てっぺんまで行って、ひと滑りしてお昼にしようぜ。」 全員OK。

何基かのリフトに乗り継ぎ、てっぺんに到着。かなりの急斜面だ。しかもコブだらけ。

実は・・・ 急斜面はなんとか滑れるのだが、私はコブが大の苦手。

とにかく、中腹の休憩場に向かって一斉に滑りだした。相変わらず視界は最悪。

目標地点など見えるはずもなく、友人の後ろに付いて滑りだした。

ところが・・・あっという間に友人が視界から消えた。仕方なくゆっくり滑っていたのだが・・・

私の左側に赤い布が、ポールに靡いているのが見えた。

赤い布の方に行ってみると、斜面は結構きつそうなのだが、コブがない。

「やったぁ。ここなら楽勝。ここ降りよう。」と。靄も少し晴れかけてきていたし・・・

大きく孤を描きながら、ゆっくりと楽しんで滑っていた。すると下から笛の音が。

「ピィピィピ~~~~~イ !!!!!!! 止まって!!!止まって!!!

 すぐに止まりなさ~~~~~~い。危険で~~~~~す。止まれ。滑るの止めなさ~い。

 ピピピピピピピ~~~~~~イ !!!!。」

せっかく気持よく滑っていたのに、まぁ取りあえず止まった。

「その場所は滑降できません。すぐに右側の斜面に移動してください。」

シブシブ忠告に従い移動した。もや、霧が晴れてきたところなのに。

コブのある斜面にもどったら、霧が晴れた。そして・・・・・滑っていた斜面を見た。

ゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲ!!!!!!!

なんとなんとなんとそこは、ジャンプ台の斜面だった。ビックリ。

雪が相当積っていたので、間違って滑り下りていても、飛び出すことはないらしいのだが、

確かに危険だ。 係の人にえらく怒られた。

 

まぁ、「若気の至り」とお許しを。

 

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大相撲

ふぅ。

残念ながら、大阪での春場所が中止になってしまった。

相撲は幼いころから好きだった。

何度か大阪場所に行った記憶がある。

いつも父方のおばあちゃんと一緒だった気がする。

年に一度の父の親孝行だったのかもしれない。金沢からやって来る。

 

当時は、朝潮関が大阪出身ということで、館内は満員だった。

大人四人では少々狭い升席。

楽しみはお弁当だった。二段か三段になっていて、結構豪華だった。

お赤飯、鯛の塩焼き等などと、かならずフルーツが入っていた。

お土産もたくさんあって、おもちゃ?の軍配や手形付きのてぬぐいや、湯呑みなどが付いていた。

 

じっとしているのが大の苦手な私は、館内を散策。駆けずりまわっていた。

ある時自分の席がわからなくなり、迷子になってしまった。

ご存じのように相撲の土俵は四方から客席が見下ろすようになっている。

「そうだ。土俵から見上げれば席がわかるかも。!!!!!」

今思えば、とんでもない事を・・・・・

幼いなりには考えた。力士が入場してくる通路はまずいと。

「塩をまかないほうからだと大丈夫だ。」 そして・・・・・

勝手にずかずかと、土俵のところまで行ってしまった。

そして客席を見上げ・・・ 「あそこや。お父さんみっけ。」

通路を戻り始めたときに・・・・・びっくりした。

前が見えないのだ。なにかわからないが、おおきな太い柱のようなものがあって・・・

するとあのちょんまげを結った大きな顔が目の前に現れて・・・

「ココ アブナイ アブナイヨ 」と。

とにかく急いで席まで戻った。

そして、一部始終をみていた父が・・・怒られると・・・

「さっき通路のとこで、高見山関となにしゃべってたんや?今から横綱の土俵入りや。

高見山も出てくるよ。」

 

私が出くわしたのは、外国人初の関取 高見山関だったようだ。

しかも横綱の土俵入り前で、待機されていたらしい。

 

通称 ジェシイー? ジェシー?

布団のCMが懐かしい。

 

 

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おっと・・・

寒い日が・・・

 

おっと、地震だぁ~ けっこう揺れたなぁ。

何年たってもトラウマで、実際阪神大震災の後は・・・・・

前にも掲載したかもしれないが、昼でも夜でも寝ているときに家の横の道を

トラックが通過する度に地響きがして、おもわず「また地震だ!」と、身構えてしまっていた。

 

さっきの地震では、家の揺れ方が当時と似ていて、少々慌ててしまった。

俗に言う、縦揺れ。木造の我が家では、下から突き上げられたように揺れる。

 

今日は寒い日での舞台経験の事を書こうと思ったが・・・

 

まだ少し構えている。そう、余震。

当時は余震というより大きな揺れ戻しがあった。何分後?何時間後?だったかは覚えてはいない。

最初の揺れから数分後、阪神高速道路が崩れ落ちるおおきな音がした。

そして・・・揺れ戻しがきた。

すでに夜が明け、なんとか状況が把握できた頃にきたのだ。

 

思い出してきた。

棚から飛び出て砕け散って割れた食器類を、片づけていた時だった。

震度としてはそれ程大きくなかったのだが、とにかく集めたガラスがまた散乱した。

 

身体に残る感覚。舞台での良き思い出の感覚もあれば、二度と感じたくない感覚もある。

 

そう言えば、鹿児島の火山が噴火した。

鹿児島公演の時、鹿児島駅に降りてビックリしたのをおぼえている。

目の前で・・・雪上車? いや、桜島の火山灰を除灰?していたのだ。

南の街で見た、不思議な光景だった。

 

日本は火山大国だ。

 

どうやら、揺れ戻し 余震はなさそうだ。

 

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あれから何年

「あれから何年」 ニュースのタイトルによく使われる。

当たり前だが、若い時は、「まだ生まれてなかったわ」だったが、最近は

「そういえば・・・あの頃は・・・」になってきた。

 

50年前  チリで、M9・5の大地震が発生。丸一日かかって、高さ5メートルの津波が

       日本まで押し寄せたそうだ。

40年前  なんと言ってもやはり 「大阪万博」だ。岡本太郎さんの、「芸術は爆発だ!」が

       印象に残っている。

30年前  お猿さんのコマーシャルの、「ウォークマン」の発売。個人的には・・・・・

       山口百恵さんの、「三浦さんとお付き合いしています。」発言かな。

 

会社を立ち上げた平成8年は・・・8月だったせいもあって、「アトランタオリンピック」が印象に

残っている。明るいニュースの後には必ず暗いニュースがある。この年は・・・・・

ペルーの日本大使館公邸立てこもり事件が、世界を騒がせていた。

これといって応援しているわけではないが、この年は、民主党が結党した。

 

今回がなんでこんな内容になったかと言うと・・・

いよいよ今年?来年? から、演劇が学校の授業に入るらしい。

業界内では、色んな思惑が蠢きだした。 フゥ~ 少し悲しい。

演劇には昔から、これといった定義がない。正解がないと言った方がいいかもしれない。

当たり障りなく教えるなら、日本、海外の演劇史だろう。ただこれも指導する方の、「考え方」に

大きく左右される。

 

まだ現役だった30年前にもあった話だ。 「学校教育に演劇は必要だ!」と。

演劇を娯楽と考えるグループと、芸術と考えるグループが、口角泡を飛ばして討論していた。

 

未だに答えは出ていない。 「それぞれの考え方でいいにになぁ」と、呑気に思っている。

 

 

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雪道

先週、久しぶりに敦賀に行って来た。

天候は最悪で、湖西道路を走行していると、吹雪に見舞われた。

久しぶりの雪道だ。

嫌な思い出が脳裏に走った。

 

学生時代に、友人のお母さんと妹と友人四人で苗場にスキーにでかけた。

勿論タイヤにはチェーンを巻いて、安全走行だ。

ご存じの方も多いと思いますが、雪道にはきまって、「わだち」があって・・・

わだち? タイヤの溝 二本のレールのようなものです。

そのわだちから外れないように運転しなくてはいけないのですが・・・

 

「うわぁ!」と友人の叫び声。

その瞬間に、ガツ~ン バリバリバリ 

私は後ろの座席に座っていたのですが、けっこうな衝撃。

 

対向車のトラックが、わだちを越えて私たちの車の方に向かってきたらしく、

友人はそれを避けるためにハンドルを咄嗟に左に切ったのですが、左は崖。

車が一回転して、奇跡的に数メートルしか設置されていないガードレールに衝突して

なんとか止まったのですが・・・ ドアを開けて降りようとしたら・・・

車が崖のほうに動きだした。

「動くなよ! 順番に一人づつおりよう。」

バランスを考えて、同じ方向のドアからゆっくりと降りた。

 

警察の方が来て、

「事故処理の書類等を作成しますので・・・誰も怪我はなさそうなので・・・

 パトカーの後に着いて来て下さい。」  はぁ?

「エンジンかけてみて?動かせそうだから、大丈夫だよ。」と。

友人は、ショックのあまり運転は無理そうなので、私が運転することになった。

ひと通りの処理を終え、おまわりさんが、

「まぁスキーはあきらめて、(当たり前だ!)動きそうだから乗って帰ったら。」と。

 

夜がしらじらと明けかけていたが、のんびり安全走行で、東京に戻る事にした。

すると・・・前からくる対向車が、かならずクラクションを鳴らしたり、ライトをパッシングする。

あまりにもその数が多いので、一度車を止めて確認することにした。

もうすっかり夜が明けていた。

車を降りて、全体を見てみた。

「ウオォオオオオ~!!!!! だだだだだ だいじょうぶなのか この車!!!!」

まず、トランクがない。 えっ? トランクが押しつぶされ、まったくないのだ。

前にいってさらにビックリ。

バンパーがない。奇跡的にライトは無傷。

簡単に言えば、四つのタイヤの上に、真四角の箱が載ってる状態なのだ。

白黒時代の無声映画に出てくるような感じ。

対向車もビックリするはずだ。

 

それ以来、スキーには絶対電車かバスになった。

 

雪道のトラウマ。  生きててよかった。

 

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西宮えびす

幼稚園のころだった。父がお正月に、

「今年から新しくなった、えびすさんに行こか?」

「なにがあるの?」

「綿あめとか、金魚すくいとか、たこ焼きとか・・・いっぱいあるで。好きなもん買うたるよ。」

「好きなもん買うたる」の言葉に乗せられて、「行く!」と。

 

よくテレビで、開門と同時に人が本殿めがけて走りだす映像が流れる。あの神社だ。

今年は、本殿復興50周年にあたるそうだ。

「えびすの神さん」として、日本の総本山で、全国から大勢の人が集まる。

とくに、十日えびすが有名で、1月9日~11日は阪神西宮駅周辺はすごい事になる。

 

あまりにも多くの人でごった返すので、いつも父が肩ぐるまをしてくれた。

私はその肩車越しに、「右や もっと右。」と父に指令を出し、欲しいものが売っている

屋台に父を導くのである。 だから毎年お参りの前に、おもちゃを買ってもらえた。

 

今日九日は、宵戎。十日は、本戎。十一日は、残り福?だったと思う。

 

えびすさんでの思い出は数多い。

迷子になるのは当たり前で、何度か迷子になったのだが・・・・・

両親も慣れたもので、弓矢のおもちゃを売っている屋台の前か、お面(マンガのキャラクターなどの)

の屋台前に行けば、必ず私がいたそうだ。

反対に、父を捜すのも簡単で、おでん屋さんの奥の席でいっぱいやっていた。

 

西宮戎。 みなさんも一度行ってみて下さい。

 

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おせち

 新年 あけまして おめでとうございます。

 

おせち料理を食べすぎてませんか?

各家庭によって、おせちの内容も違うのでしょうね。

 

我が家では毎年暮れに、まず大きな鍋に大量のだし汁をとる事から始まります。

煮物、炊き物  筑前煮、たいのこ、エビ。

お重の中身は・・・

野菜(ブロッコリー)果物(イチゴ)の重。

紅白蒲鉾、伊達巻の重。

ハム、黒豆、くりきんとんの重。

筑前煮の重。

 

別の入れ物には、エビの炊いたもの、数の子、たいのこ。

そして、紅白なます。金時ニンジンと大根。

ほんとうはまだまだ作るのだが・・・・

くわい、八つ頭いも等、今年は断念したものもある。

 

おせち料理は、「一年を無事に過ごせるように」との思いが込められている。

 

本年も どうぞ宜しくお願いいたします。

 

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抜歯

年末にまたまた悲しい出来事が・・・

 

私の歯は、ずいぶん少ない。

通常大人の人がなければならない歯の本数は、50代で26本。

すでに私の歯は、21本しかないのだ。 悲しい。

2週間前から歯が痛みだし、しぶしぶ医者に行ってきた。

無痛治療を心がけているお医者さんだ。

相当ぐらついていたので、「たぶん抜歯されるだろうなぁ」と。

まず口腔撮影をした。それを見て一言。

「だめかな。」

「え~やっぱりだめなんだぁ。」

「とりあえず一度診ますので。」

数秒後

「抜きます。」

「やっぱりだめですか?」

「無理ですね。」

「わかりました。」

こんなやりとりがあって、あっさりと抜かれてしまった。

 

「まだまだ噛める歯があるので、大丈夫ですよ。」と言われたが、残りは20本。

 

なんだか急にさびしくなってきた。

 

 

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記念日

来週はクリスマス。

幼いころサンタ(父親)のプレゼントが楽しみだった。

ところが小学5年生から、それまではオモチャだったプレゼントが、「日本の武人」の本になった。

中学になったら、我が家にサンタさんは来なくなった。当り前か。

 

クリスマスといえば、トリの足。七面鳥ではなく トリの足。丸かじりだ。

大人になって、七面鳥を食べる機会があったが、私の口はやはり、クリスマス=トリの足。

 

一年を通していろんな記念日があるようだ。

1980年代に、俵万智さんが 「サラダ記念日」という第1歌集を出版された。

これが大ヒット。そしていろんな記念日がうまれた。

ハロウィンは最近のような気がするが・・・・

バレンタインデーは、お菓子屋さんの戦略だったらしい。いつの間にか、ホワイトデーまで出来た。

 

どの家庭でも、お誕生日がある。

私のお誕生日の日は、かならずバラ寿司とお吸い物だった。一度母に尋ねた事がある。

「なんでお誕生日の日は、バラ寿司なん?」

「お寿司食べたらのど渇くやろ。でもその後で必ずケーキ食べるやん。バランスが丁度ええやろ。」

はっ ?????

 

「お誕生日は、自分を産んでくれた母親に感謝する日だ。」と言う人もいれば、

「生まれてきてくれてありがとう という意味でお祝いをするのだ。」と言う人もいる。

男にはわからないかもしれない。

 

さて、今年もあとわずかだ。早いものだ。

みなさんも良い年の瀬を。

 

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12月

12月になると、思い出すことが幾つかある。

 

1980年 12月 劇団の先輩が叫びながら稽古場に入ってきた。

「ジョンがジョン・レノンが撃たれて死んだぞ!!!」

ザ・ビートルズの元メンバー ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で凶弾に倒れた。

私はそんなにビートルズをよく知らないのだが、ジョン・レノンの名は、違う意味で印象に残っている。

 

中学生の頃だった。

ジョン・レノンが二度目の結婚をした。それが日本でも話題になった。

そう、相手が・・・日本人 オノ・ヨーコだったからだ。

この二人の新婚旅行が世間を騒がせ、話題になった。

「ベットイン」と名の新婚旅行で、七日間二人がベットで過ごすのが取材され、放送された。

多感な中学生には、それが平和活動のイベントだとわかるはずもなかった。

当時はベトナム戦争中で、反戦運動がさかんに行われていた。

新婚旅行は反戦運動のパフォーマンスだった。

 

なぜ印象に残っているかというと、当時音楽の先生が音楽の時間に、ジョン・レノンについて語り

平和活動の重要さを熱弁されたのだ。 当時は・・・?????だった。

 

「戦争は終わる。みんなが望むなら。」

この言葉だけは覚えている。

 

ヒッピー、ノンポリ、マリファナ、ロックンロール・・・こんな言葉が流行していた時代だ。

 

先輩が叫んだ一言で、中学時代の事を思い出したのが、30年前の12月だった。

 

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宇宙戦艦ヤマトⅡ

「広瀬 ミュージカル制作する時は、やっぱりオミヤがいいなぁ。オミヤに頼もう。」

恩師 山田卓先生の口癖。

オミヤ?最初は何の事か解らなかった。

よくよく聞いていると、どうやら作曲家の名前らしい。

「先生 オミヤさんって何方のことですか?」

「オミヤだよ お宮。和製ポップス界の大御所 宮川泰」

 

私より一世代若い方は、紅白歌合戦で最後に「蛍の光」を指揮していた方。

私より一世代年配の方は、ザ・ピーナツの育ての親。

 

お二人は同年代。何カ月か宮川先生のほうが年上だった。

お二人のお話を何度か聞く機会があった。

きまって進駐軍時代のお話だ。

山田先生曰く。

「ヤマトはお宮の秀作だ。お宮がまさかアニメの作曲をするとはなぁ。」

宮川先生は年上なのに、なぜか「卓先生」と呼ばれる。一度尋ねたてみた。

「卓先生は俺がバンドマンのころすでにスターで、よくリズムの事で怒られたんだよ。

すげぇうるさいオッサンで、ちょっと間違えただけでも、「踊り難い!!!」って。」

なるほど。

 

1970代 私を元気にしてくれる曲が2曲あった。

映画 「ロッキー」のテーマソングと「宇宙戦艦ヤマト」だった。

70年代の後半 ウオークマンが大爆発。

当時ダンスの曲や、歌の課題曲や、流行りの歌謡曲などを入れていたのだが、

「宇宙戦艦ヤマト」は必ず録音していた。

 

劇場版がいよいよ公開された。

映像より、テーマソングを聞いていたい気がする。

 

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宇宙戦艦ヤマトⅠ

「来週さっそく見にいくんです。」

唐突に言われた。

「何見に行くの?」

「宇宙戦艦ヤマトにきまってるじゃあないですか。知ってます?ヤマト?」

「知っとるわい!!!!」

 

今若い人に人気があるそうだ。木村拓哉さん主演の実写版。

 

TVで放送された時、私は高校三年生だった。よく覚えている。

高校三年生の秋から卒業までの半年間、私は小学校の時の担任だった先生のご実家に

下宿させていただいていた。寮を出て、受験のために・・・(別の理由もあったのだが)

そこには幼いかわいい兄弟がいて、一緒にヤマトを見ていたのだ。

ところが残念な事に、ヤマトは半年で打ち切りになったのだ。

最終回を見終わった兄弟が、

「なんで今日で終わるの?まだ地球が助かってないやん。なんで?なんで?」

涙まじりの目で聞いてきた。答えに窮した。おもわず・・・

「また始まるよ。ちょっと休憩や。」とわけのわからない事をいってしまった。

一緒にお風呂に入ると、きまって三人であの歌を歌った。

さらば地球よ~   地球を離れイスカンダルに~

幼い弟君がきまって、

「イスカンダルって何処にあるの?」

「宇宙や。」

「宇宙って?」

「雲より高いとこ。」

「どれぐらい?」

小学生のお兄ちゃんがすかさず、

「地球の外にあんねん。」

「地球の外にあるんか。ふ~ん。」

毎回これが繰り返される。さすがお兄ちゃん。

 

懐かしい思い出だ。

 

 

 

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コンプレックス

昔から私にはコンプレックスが三つあった。

男性の平均身長に満たない事。歯並びが悪い事。字がやたら汚い事。

 

幼いころかの遊び相手は、たいがい身長の高い男の子だった。

なぜだか安心感があると言うか、守ってもらえると言うか・・・

やっかいなこともあった。

仲が良いといってもそこは子供で、年に数回は大ゲンカをする。

とうぜん勝ち目はないのだが、チビはチビなりに多少知恵が働く。

決して先に手を出さない。これはこれで辛いのだが・・・・・

口は出す。相手が手を出したくなるような酷い事を言う。殴られて当たり前。

 

自分の写った映像を見た。ヒェ~

口が歪んでいる。実際は歪んでいないのだが、歯並びが悪いためそう見える。

「芸能人は歯が命。」 そんなコマーシャルがあった。

成人にあってしかるべき本数の歯。私は・・・7本も少ない。 70代。

 

先日車の事故にあった。一時停止無視の車にあてられた。

おまわりさんを呼んだ。事故の経緯を話し、物損事故処理になった。

交通違反の時もそうだが、書類にいろいろ書かなくてはいけない。

一通りおまわりさんが書いた書類に・・・・

「ご自分の名前の下に署名をお願いします。」

「はい。・・・???・・・。何処だ?おれの名前は~と・・・」

初めて見た。自分の名前の象形文字。

急いでおられたのだろう。ももも・・・ものすごい字。

丁寧に書いても、決して美しくない私の字。

名前と住所ぐらいは美しく書こうと思う。

 

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出来る事と出来ない事

最近同じ年代の人の職探し番組を見た。

部長職を目前にリストラにあった50歳の男性。

部長に昇進するためには、部下を20人退職に追い込まなくてはならない。

相当な葛藤の末身体を壊し、入院中にリストラされてしまった。

定年まであと3年。会社が倒産してしまった、57歳の男性。

2年前に早期退職を迫られたが、迷った末に断る。

彼のつぶやき。 「今にして思えば・・・」

 

この二人が職安に行く。まず書かされるのが、職歴。

二人とも、営業職。 

窓口の人に、「できるだけ詳しく。」と勧められるのだが・・・・・

二人とも困惑した様子。すると横にいた見知らぬおじさんが・・・

「私も困ったんですわ。家に帰ったらかみさんに、「あんたの出来ること書いたらええねん。

なんでもええから書いとき。たいしてないねんから。」って言われたんですわ。」

二人は?????だった。

「まぁ思いつくままに、出来る事と、出来ない事を並べときました。くだらん事まで。」

このおじさん出来る事に、プラモデル作り、高い所、体力OK等々。

出来ない事に、裁縫、パソコン、人との会話等々。

「おかしなもんで、出来そうもない仕事が決まりましたわ。」

決まった仕事が、左官屋さんの助手。

このおじさんの前職は、経理。二人は思わず・・・

「出来ない欄にパソコンって・・・???ほんまかな?」

 

出来る事と出来ない事は、はっきりしているほうがいいらしい。

例えば・・・

ダンスは教えられるが踊るのは無理等はNG。

この場合、出来る事 ダンス 出来ない事 運動 なるほど・・・??? う~ん。

 

一度自分を見直すためにも、出来る事と出来ない事を書き出してみようと思う。

 

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本質

先週 いつもお世話になっている、某企業の会議のお手伝いをした。

かれこれ四年になる。

会社の会議と言っても、これが・・・・・

一日目は部門ごと?に別れての会議。二日目が・・・なんと・・・

歌礫(うたつぶて)?????

各支店、営業所、部門別にチームがあり、それぞれが歌とラップを披露するのだ。

普段は営業職であったり、技術職であったりする人達が、一生懸命エンターティーメントを示すのだ。

歌詞を考えたり、ダンスをしたり、扮装をしたりで、実に楽しそうなのだ。

全国から社員のかたが集まるのだから、考え方やテーマの捉え方もそれぞれである。

 

今回振付のお手伝いもした。

もともと踊る基礎などお持ちでないのだから、上手く踊ってもらおうとは考えてはいなかったのだが、

何度か練習を重ねるうちに、様になってきた。

「振りがはいりましたね。」

「いやいや。」

「楽しく踊ってくださいね。」

「いやいや。勝手に体が動くんですよ。条件反射かなぁ。ハハハハ・・・」

びっしりと汗をかかれている。

「この後のビールがうまいんですよ。ハハハハハハ・・・。」

びっくりしたと同時に、嬉しかった。

 

人間の本質はそうそう変えられるものではない。

一生懸命取り組む姿。

どんな職業にも共通するものだと感じた。

 

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同窓会

先日中学校時代の同窓会に出席した。

私は中学二年生の秋に転校したので、約四十年ぶりに会うことになった。

面影のある人もいれば、まったく思い出せない人もいる。

53,54歳の集まりだ。みんな人生を重ねてきた。

 

親の介護、定年後の話、子供の話、孫の話等など。

もちろん思い出話が多いのだが・・・・・

私の顔を見て話しかけられる内容に、母の話が多かった。

第一声が、「お母さん元気?」だった。

不思議な感じがした。帰宅して当時のアルバムを覗いてみた。

 

昭和40年代の中ごろだ。大阪万博のころだ。

よくよく母の写真を見てみると、確かに着ている洋服がハデではある。

頭はどの写真もパーマがあたっている。 なるほど。印象に残るはずだわなぁ。

そして次に問われた事が・・・

「お姉さん元気?」  ?????

なんで姉のことが気になるのか聞いてみた。

「広瀬君 生徒会に立候補したでしょう?」

確かに一年生の最後に立候補はした。

「あの時お姉さんが広瀬君の応援演説したよね」

「あぁ・・・そうだったかなぁ・・・」

「かっこよかったよ。お姉さん美人だったし、私たちの憧れていた生徒会長の〇〇さんの

彼女だったし・・・」

もうどうでもよくなってきた。

どうやら当時は私の印象より、母や姉の印象があるらしい。

まぁ、仕方ないか。

 

同窓会もいいものだ。

 

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恐怖症 Ⅱ

大学生時代友人達9人とお袋を連れて、北海道にスキーに出かけた。

手稲だったかニセコだったかは忘れたが、思う存分滑った。そしていよいよ・・・

大雪山に移動した。

大雪山は、本来春スキーのメッカで、2月に滑りに行くところではない。積雪量 3m 

滑降不能なら、「ゆっくり温泉に浸かってのんびりしょう」と思っていた。

現地に着くと晴天。これは滑るしかない。

ロープウェイの降車口に檻があり、その中になんと、救助犬のセントバーナードがいた。

冗談半分だったが、全員手袋の匂いを嗅がせた。

 

10人一列になっていざ滑りだしたのだが・・・なんと・・・積雪が多すぎて滑れないのだ。

仕方なく、雪中行軍だ。急斜面まで歩くことにした。すると先頭の友人が・・・

「危ない!山側に倒れろ!!!!!」と。

前のほうからバタバタと山側に倒れていくのだが、私が倒れようと思った時はすでに時遅く・・・

ほんの小さな雪崩だったが、4~5mは落ちた。

雪の中に潜ってしまったのだが、上を見ると太陽が見えていたので、たいして埋もれてはなかった

のだが、友人達が、「お~い 広瀬が埋もれた。探そう。何処や!お~~い。」

勿論冗談。いる場所はわかっていた。そして ザクザクとストックを刺す音が聞こえてきた。

次の瞬間 私の目の前に友人のストックが刺さった。

ビックリした。目の前数ミリのところに、ストックの尖った先が・・・

思わず叫んだ。

「危ないやんか!」 雪の中から飛び出た。

「ほ~らいた。ここやとおもてたわ。」

 

あのストックの先端がトラウマになり、以来 先端恐怖症になった。

尖った物が自分の方に向いていると、何気にずらす。

指でさされるのさえ苦手である。

 

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恐怖症 Ⅰ

53年間生きてきて、二度とかかりたくない病気が二つある。

ぜんそくと結石。

初舞台でぜんそくになり、ツアー途中であえなく降板したことは、以前書いた。

息を吐く事は出来ても、吸う事ができないのだ。

レッスン中に過呼吸に陥る生徒も何人か見てきたが、その度に私も苦しくなっていた。

 

二作品目だった。棺桶に閉じ込められるシーンがあった。

なんだか嫌な予感がしたのだが、とりあえず稽古をつづけた。

葬儀屋夫婦に逆らって逃げ回り、数分して最後は棺桶に閉じ込められる設定だ。

段取りを何回か繰り返した後に、「じぁ行ってみようか」

セット中を駆け回り、途中トンボをきり、大声を出し・・・・・最後に三人いや四人にふんずかまって

放り込まれる。蓋を閉められ、その上に三人がどっしりと乗っかっている。

「広瀬 中でも暴れろ!。簡単に静まりかえったらだめだ。〇〇がやってきて、その声が聞こえて

からおとなしくなるんだ。」 

ドタバタ ガタガタ 「開けろ!ちきしょう!」 

「そうそう、そんな感じ。そうそう・・・もういいぞ。」

上に乗っかってた先輩を、蓋ごと蹴り飛ばして出てきた。

怪訝な顔の先輩達。

すでにその時、呼吸困難に陥ってた。私の顔を見て、「大丈夫か?」と。

軽いぜんそくの発作がでていた。

事情を説明して、客席から見えないように小窓を開けてもらった。

ところが今度は、棺桶の中からなのに台詞がはっきりと聞こえすぎると。

仕方なく口に手をあてて台詞を言う事にした。

 

この出来事がトラウマになり、閉所恐怖症になった。

今でも狭い場所は苦手だ。

 

チリの炭鉱落盤事故。ニュースを聞いているだけでも息苦しくなる。

全員が無事救出されて、本当によかった。

 

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映画音楽

「無人島に一本だけ映画を持っていけるとしたら?」

芝居?ミュージカル?コメディ? だれかのライブ?

私は迷わず 「ゴットファーザー」と答える。

 

アル・パチーノの代表作 マーロンブランドの秀作 ロバート・デニーロの名演

しかしなんと言っても、ニーノ・ロータの音楽だ。

 

またまた古い話になるのだが、ニーノ・ロータとの出会いは中学生の時だ。

デートで映画を見に行くことになった。なにを見るのかは、はなっから決まっていた。

当時若い女性に人気のあったフランスの俳優 アラン・ドロンの作品で、

「太陽がいっぱい」 もちろんリバイバル。

彼女はスクリーンに釘ずけ。ストーリーなんかあまり覚えていない。

眠りそうになった私の耳に、トランペットだったと思うのだが、とても綺麗なメロディが聞こえてきた。

パンフレットを見た。作曲家は・・・ニーノ・ロータ。

 

彼が関わった作品を探した。これもリバイバルだった気がするが・・・・

「ロミオとジュリエット」  

ごめんなさい。この時は、オリビア・ハッセーの美しさにやられてしまって・・・・

しかも後に、布施明さんと結婚。(離婚したが)

 

そしていよいよ 「ゴットファーザー」だ。

やはりトランペット。なんとももの悲しいメロディなのだ。ただし・・・・

当時暴走族の鳴らす警笛が、この映画の曲だったのが悲しかった。

残念ながら、何か別の作品に使用されたアレンジバージョンだったため、アカデミーからは外れた。

 

DVDを借りてきたら簡単に見れるのだが、その気になれない。

今でもリバイバル映画を上映している映画館もあるとは思うのだが・・・

 

まだ舞台やミュージカルを目指していなかったころの話だが、名優の芝居に心魅かれ、

美しいメロディに耳をかたむけた。

 

「ゴットファーザー」 どこかで上映してないかなぁ。

 

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一本の映画から

大学時代にはよく映画を見に行った。

バレエのけいこ場がコマ劇場だったので、おのずと映画館はコマ劇場の地下にあった、

確か・・・東宝~だったと。

当時コマ劇場の地下にはダンスホールがあり、生演奏が映画館にも聞こえてきた。

オールナイトが流行っていて、稽古終わりから朝まで見ていた。

今では考えられないが、喫煙OKだったのだ。スクリーンはタバコの煙で靄っていた。

 

シリーズものが多く・・・森繁久弥さんの、社長シリーズ。植木等さんの、サラリーマンシリーズ。

加山雄三さんの、若大将シリーズ。そして・・・仁義なき戦いシリーズ等など。

 

ある日洋画のシリーズがあり、何気なく見ることにした。

アーサー・ペン監督作品の週で、まったく聞いた事がなかったのだが、タイトルを見て

見ることにした。 ヘレン・ケラーの一生を描いた、「奇跡の人」

実はその前の週に、奈良岡朋子さんの 「奇跡の人」をみていたからだ。

劇団民芸 宇野重吉さん率いる老舗の劇団だ。

当時女優さんに「どんな役がやりたいですか?」と尋ねると、必ずといっていいぐらいに

ヘレン・ケラー役をやってからアニー・サリバン役やりたいと。

特にサリバン役は、奈良岡さんをはじめ、有馬稲子さん、市原悦子さん、大竹しのぶさんなど

錚々たるメンバーが演じている。

 

舞台も映画もとても感動したのを覚えている。アーサー・ペン監督作品をいくつか見ることにした。

そして二作目にみたのが、「俺たちに明日はない」だった。

アメリカ大恐慌時代の犯罪映画だ。ボニーとクライド 銀行強盗の話だ。

主演が、フェイ・ダナウエイとウォーレン・ビューティ。

フェイ・ダナウエイは超有名だが、なぜか私は、ウォーレン・ビューティに惹かれた。

話は飛んでしまうが、ウォーレン・ビューティが私の大好きな女優、シャリー・マックレーンの

弟だったと知った時は、とても嬉しかった。

 

そして次に見た作品が、「小さな巨人」だった。三時間ぐらいあったと思う。

この作品であの名優に出会った。 ダスティン・ホフマン。今度は彼の作品を追うことにした。

「クレーマークレーマー」を見て、フレンチトーストを作ったものだ。

彼の演技に惹かれ、出世作 「卒業」も当然見た。そしてまたまた・・・・・・

そう、「卒業」のテーマソング 「サウンド・オブ・サイレンス」 サイモン&ガーファンクルだ。

 

節操がない。

まだまだ節操のない繋がりをしてゆくのだが・・・・・

 

話は元に戻るが、おおもとになった アーサ・ーペン監督が亡くなった。

また 「奇跡の人」をゆっくり見てみようと思う。

 

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母の思い出 Ⅱ

急に寒くなってきましたね。

 

またまた個人的な内容ですが・・・・・

 

京都の盆地育ちの母は、暑さにも寒さにも弱く、いつもブツブツ言っていました。

京都弁?の思い出は・・・

幼稚園の友達のお宅に伺った時でした。母がそのお宅の玄関を開けて入ろうとした時、

「ごめんやす。広瀬です。」

ごめんやす??? 幼い私は一瞬・・・!!! ???

「なんで謝るの?」状態でした。家に帰って聞いてみた。

「ごめんやすは、こんにちわって云う意味で、おいでやすは、いらっしゃいませって云う意味

なんよ。他にもいろいろあるけど・・・」

ついでに聞いてみた。

「おばあちゃんが時々 「正勝 ぶぶ食べるか?」って。」

母は笑いながら答えてくれた。

「京都ではお茶ずけのこと、ぶぶって言うのよ。」と。

 

京都言葉?で一番理解し難かったのが、「はんなり」

母はこの言葉を気に入っていたらしく、よく使っていた。

 

お正月のお雑煮を食べると、母の事を思い出す。

広瀬家のお雑煮は、基本的にお澄ましだ。それはそれで美味しいのだが・・・・・

三日目ぐらいになると必ず母が言いだす。

「来年は白みそにしよか。」と。

京都では、いや母の実家ではお雑煮が白みそで、小芋や人参や、なぜか野菜が

たくさん入っているのだ。少々甘い。

 

いつまで、いくつになっても、親は親なのだ。 当たり前だが。

 

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忘れかけていた・・・

よく人に聞かれる事がある。

「劇団四季にいて良かった事はなんですか?」と。

先日久しぶりにその質問をされた。

 

初舞台を踏んでから、五本目の作品だった。12月公演。

「小公子」 セドリックの役をいただいた。ファミリーミュージカルだった。

初日は忘れもしない、神奈川県民ホール。

いつもと変わらぬ準備をして、例のごとく早めに袖にスタンバイしていた。

間もなく開演だというのに、なんだか客席がざわついている。

兄貴分のチャミさんが、

「集中していけよ。稽古してきたとおりにな。」と。

いつもより強い口調で言われた。  ???

舞台上に板つきになり、緞帳中の明かりが落ち、開演ベルがなった。

チャミサンのソロから始まる。

なんだか様子が変だと感じた。客席が薄明るいのだ。

総踊りになってセンターで踊りだした時・・・・・・・客席から・・・・

「ウォ~ ウォ~」の声。ガタガタガタ・・・ギィギィ・・・と意味の解らない音。

視線を客席に向けてみると・・・・ びっくりした。

目の前にベットに横たわった人がぎっしり。その後ろの客席には・・・・・

車イスに座った障害者の方と、付き添いの方が。

客席中央上段には、警備員に囲まれた一角があった。

理由がわからず混乱しかけたが、とにかくいつも通りやるしかない。

休憩時間楽屋に戻っても、二幕の準備でだれにも答えてはもらえなかった。

 

舞台が終わると先輩に引きつられて、ロビーに出た。送り出しだ。

 

一人一人握手をしていくのだが・・・・

車イスに乗った少年が私の前に来た。そして付き添いの方が(たぶん親御さんだと思う)

「ありがとうございました。この子の体は動かないはずなのですが、しきりに腕をイスにぶつけて

いました。動かないはずの腕が・・・唸り声まで聞きました。」

なんと言っていいのか・・・・すると今度は・・・小柄な女の子がやってきて・・・

「その声はセディーをやった人ね。」と。どうやら目が・・・・

「お願いがあるの。触ってもいい?」と。

彼女の両手を取って、髪を触らせてあげた。すると・・・

「マッシュルームなんだ。きっときれいな金髪ね。」衣装を触って・・・

「ビロードの生地なんだ。サッシュベルトはきっと白ね。」

「そうだよ。」と答えるのが精いっぱいだった。

 

この公演でいろんな事を学んだ。

目のみえない人は、舞台に耳を向ける。耳が聞こえない人は、私達の口元を読む。

暗くなると不安を抱く人のために、客席に薄明かりがつく。

警備員に囲まれた一団は、少年院に身を置いている。

全身が動かない人達は、ベットに横たわって振動で感じてくれている。

 

初日を終えてミィーティングがあった。

「広瀬 びっくりしただろう。お前には「緞帳が開くまで伝えるな」とかん口令がでていたんだよ。

大丈夫か?」

私以外はみんな知っていたのだ。

「はい 大丈夫です。いつも通りやります。」

 

全国を回った。いろんな事も考えた。でもいつも結論は同じだ。

「精一杯やれる事をやる。」これしかできなかった。

二年つづけてこのツアーに出た。貴重な経験だった。

 

二年目のある会場で・・・

「あっ、去年セドリックをやった人ね。」 私に触れた彼女だった。

 

いい役がやりたい。称賛を浴びたい。万来の拍手を浴びたい。欲はいっぱいある。

だが、わずかでも人の記憶に残る舞台に立てたことが嬉しい。

  

 

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母の思い出 Ⅰ

19年前の9月12日 59歳の若さで母が他界した。

夫婦で人間ドックに入り、その検査結果を聞きに行った。

当時私は宅配の会社に勤めていたのだが、夕方家から電話があった。

母が病院から電話してきたと。

「胃がんらしい。今から入院するわ。」

 

この世界に身を置くきっかけは、姉のアドバイスがあったからだと以前書いたが、

母の影響は幼い頃からあった。

幼稚園のころから、姉とともにオルガン教室に通わされた。ディズニーの映画はほとんど見た。

母に教わった事はたくさんある。一番は、水泳。母は古式泳法の師範だったからだ。

塾、家庭教師、書道、絵、ピアノ、スキー、水泳教室等など、いろんなことをやらされた。

な~んにも役にたってないが・・・・

反対に絶対許してくれないことが二つあった。 バイクとボクシング。

 

入院してすぐに、胃を全部切り取った。早期だったのでひと月ぐらいで退院してきた。

それから三年はわりと元気に過ごしていたのだが、12月の年も押し迫った日に、

母が私に聞いてきた。

「この味噌汁美味しい?うすない?」

ひとくち飲んだが、あきらかに濃かった。

「うすくはないよ。ちょっと濃いかな。」

「えっ 濃いの? ふ~ん・・・・・」 悲しげな顔だった。

 

後日わかったのだが、癌の薬を飲んでいると味がわからなくなってきていたようだ。

母は早速医者に相談、いや 強引に薬をやめたいと迫ったようだ。

術後三年が経過したら、ほぼ転移はないだろうと言われていたらしい。

抗がん剤を飲まなくなってひと月。やっぱり再発した。

余命もって三カ月。

再入院した日に母が私にこっそり頼み事をしてきた。

「鉄火巻き買ってきて。ワサビ入り。しょうがも沢山もろてきて。」

「医者に怒られるで。」

「今日からまたあの薬飲んだら、味がわからんようになるやろ。だから今のうちに

美味しいもん食べとかな。今年のお正月のおせち、ひさしぶりに美味しかったわ。

あっ、コーヒー味のアメもこうてきて。」

子供のような母。逆らうことなどできなかった。

 

三か月が半年もった。

 

母の口癖。

「あんたの育て方、まちごうたわ。」

 

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第二の人生

舞台に立っていた時、けっしてやってはいけない事がいくつかあった。

その一つが、スキーだった。

怪我をしては舞台にあなを空けるからだ。しかし・・・・・

大学時代はあっちこっちに出かけていた。

 

長野県信濃町に黒姫山がある。友人の親戚がペンションを経営していた。

ゲレンデから直接滑ってこれるほど近い。

劇団を退団した年の冬は、ずっとそこに籠っていた。

車で10分ほど下山して行くと、野尻湖がある。

当時は、水上スキーやウィンドサーフィンが流行していた。

たしか・・・ マンモス?かなにかの・・・ナウマン象だったかなぁ・・・

化石の発掘がさかんで、子供達が夏休みの宿題にと沢山集まってきていた。

 

夏は水上スキー、冬はスキーとスノーモビル。

ペンションのオヤジにでもなって、楽しく過ごそうなんて呑気な事を考えていた。

とりあえず・・・

水上スキーをするためには、小型船舶の免許がいる。

送迎バスを運転するには、大型の運転免許がいる。

両方取得することにした。ところが・・・・・

自分でペンションを経営していくためには、その他にもいろいろ取得しなければいけない事が・・・

衛生管理者~とか、危険物取扱~とか・・・しかし一番悩んだのは、調理師免許だった。

調理師免許以外は勉強すればなんとかなりそうだったのだが、

調理師免許はたしか・・・三年以上の経験が必要で、推薦状も必要だった。

勿論会社も興さなくてはならないし、経理の知識も必要だし、私には未知の世界だった。

 

友人に相談した時、友人のおやじさんが一言。

「お役者(私の愛称)、第二の人生だって。三十年早いわ!!! だいたい第二の人生って

サラリーマンが四十年近く勤めて、定年間近に考えることだぞ。ペンションのオヤジ?

おめぇまだ三十前だろ。ちゃんと働け、ちゃんと。」

ごもっとも。

 

あれから二十五年が過ぎた。

本来ならそろそろ第二の人生を考える年齢なのだが・・・・・

もう方向転換する気持ちはさらさらない。

 

86,7になった友人のオヤジさん。今年の五月にひさびさにお会いした。

「お役者よ、今度いつ舞台出るんだ。東京でなら見にいくぞ。」と。

 

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おにぎり

昔 「最後の晩餐」と言う番組があった。

ニュースステーション番組での、ひとつのコーナーだったかもしれない。

「最後の晩餐」 私は躊躇わず 「おふくろのおにぎり」と答える。

おふくろのおにぎりは、いつも小さめの俵型。

お弁当にはきまって、俵型のまっしろなおにぎり二個と、海苔が巻かれたおにぎりが二個。

 

遠足の時だった。お弁当の時間になって、全員が輪になって食べることになった。

先生が、「両隣の人と、おかずをひとつずつ交換しなさい。」と。

左隣の女の子とは卵焼きを交換した。一口食べてびっくりした。甘くないのだ。

今で言う 出し巻き的な味だった。たぶん女の子もびっくりしていただろう。

我が家では昔から卵焼きは、だだ甘いのである。

右隣の男の子の弁当箱を見てまたまたびっくりした。

丸い真っ黒な、まるで砲丸のようなおにぎりが入っていたのだ。

彼はおにぎりを交換しょうと言った。

あまり気がすすまなかったが、おかずがあまり入っていなかったので、しかたなく・・・

おおきな彼のおにぎり一個と、俵型の小さなおにぎり二個を交換した。すると彼が・・・

「おかあさんの味がする。」と。  ??? なんだかとても嬉しそうに食べていた。

「あっそうだ。」 

彼のおかあさんは彼を生んで間もなく亡くなられた。それとなく訊ねてみた。

「お弁当だれが作ったん?」

「おとうさん。だからいつもこんなおにぎりやねん。味付け海苔にしてって言ってんのに

いつも焼海苔やねん。広瀬ん家のおにぎりおいしいなぁ。」

おとうさんの味がしたかどうかは覚えてないが、すごく量が多かったのは覚えている。

 

家に帰ってからおとうさんに、「おにぎりを作って」とお願いした。

日曜日の朝 「お~い おにぎり作ったぞ。」と。

まぁるい大きなおにぎりを期待して、台所に行った。

そこにあったのは・・・!!! 三角の大きなおにぎりだった。

 

社宅に住んでた頃、東京から転勤してきた家庭が、私を驚かせた???

ちょうどおやつの時間だった。

「焼きおにぎりできたよ。」  焼きおにぎり???

醤油で茶色くなったおにぎりらしきものがでてきた。 なんだかしょっぱそうだし、焦げている。

ところが食べてみると・・・びっくりした。美味しいのだ。

早速母にお願いしたのだが・・・ 

「体に悪い。」 一言で却下。

この家族にはいろいろ経験をさせてもらった。

納豆、くさやの干物、トコロテン・・・等など。

昭和40年前半 関西で納豆は 「腐ったもんなんか~」だった。

くさやなどもってのほか。でも干物は美味しかった。

ただどうしても駄目だったのが、トコロテンだ。

黒蜜でしか食べたことのない私にとって、酢醤油は無理だった。

 

私が作るおにぎりは・・・やっぱり、俵型なのだ。

 

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社高校

この年齢になると、だんだん記憶がさだかでなくなっていく。

高校野球を見ていて、ふと自分の母校を思い出した。

 

兵庫県立社(やしろ)高等学校 体育学科

兵庫県加東郡社町にあったのだが、数年前合併で・・・加東市になったはずだ。

まだ中国自動車道が開通しておらず、三宮から神姫バスに二時間以上揺られて行く。

電車では・・・加古川から加古川線に乗って・・・30分ぐらいだったと思う。

学校のまわりは田んぼとため池だらけ。びっくりするぐらいの、のどかさだ。

 

大正時代に女子校として設立された。すでに・・・60年以上の歴史があった。

体育学科は一年間寮生活だ。もちろん私は通学など不可能なので、三年間寮生活を送った。

甲子園球場がゆうに三つは入るぐらいの大きな敷地だ。

野球グランド、400メートルの・・・確か・・・第三種公認陸上グランド。そのほか・・・

サッカーコートが二面取れるグランド。テニスコートが・・・四面以上あったと思う。

バスケット、バレーのための体育館。体操部専用のトレーニングセンター等など。

そして、二階建てと四階建ての寮だ。

二段ベットが二つあり、そこに、三年生、二年生、一年生二人の四人部屋。

体育会系ののりだ。色んな規則?があった。

一年 ボウズ 二年 スポーツ刈り 三年 長髪  ???だった。

一年 しもべ 二年 人間 三年 神様  えっ!!!

 

とにかく思い出が多過ぎて・・・先輩は絶対で、無理が通るを超えていた。

新入生歓迎?儀式?が正にキョーレツで、今も覚えている。

ひとつはお風呂。大きな四角い湯船に上級生が入っていて、名前を呼ばれた一年生が

一人ずつ湯船の真ん中に立ち、おおきな声で自己紹介をするのだ。すると・・・

「おめでとう」の声と共に、上級生に沈められるのだ。汚いお湯をたらふく飲むはめになる。

あくる日の朝部屋の先輩が 「昨日は大変やったなぁ。」と、ハミガキ粉を歯ブラシに絞ってくれる。

「ありがとうございます。」と言って歯を磨くのだが、実はそれは歯磨き粉ではなく、

白い靴クリームなのだ。口の中は油でギトギト。各階の洗面所から同級生の悲鳴が・・・。

まるでマンガの世界だ。今なら大問題だが、なぜか楽しい行事だったのだ。

 

こんなエピソードは、数え切れないほどある。

買い物に行って来いと言われて、「あのぉ・・お金を・・・。」

先輩はすぐさま机に行き、なぜかノートとエンピツを取り出した。

そしてノートに、1000円と描き、ビリビリと破いて 「ほいお金や。」と。  ポカ~ン。

もちろん後でちゃんと清算してくれるのだが、ちょとしたユーモアが寮生活にはあった。

軍歌好きの寮長に、無理やり軍歌を覚えさせられたり、先輩の彼女さんに手紙を渡しに夜中に

女子寮に忍び込んだり・・・・

弊害もあった。あまりきれいなことではないが、男特有の病気?だ。インキン~とか。

 

高校での寮生活。悲しい事や悔しい事も沢山あったが、楽しい事も山ほどあった。

またゆっくり当時の写真でも見てみよう。

 

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教育実習 Ⅱ

いよいよ実習が始まった。しかし気が重い。

10人の生徒を選んだのだが、以外な質問に戸惑った。

「放課後の練習に参加したら、内申書の印象良くなりますか?」

「さぁどうだろう。担任の先生に聞いておくわ。」

即行で教員室に飛んで行き、進路指導の先生に訊ねてみた。

 

「広瀬のころとはずいぶん事情が変わったからな。」

と言ってもたかだか7年前だ。

当時から高校受験は内申書が重視されていた。ただ、確か私達の年から・・・・・

兵庫県方式が始まった記憶がある。それまでは、内申書+当日の実力テストが入試の基本だった。

ところがたぶん・・・実力テストではなく、思考能力テストに変わった年だったと思う。

数学、国語、英語などといった科目別ではなく、すべての要素を備えた?試験だった。

しかも解答はすべて、マルバツ方式だった。

また公立高校の地域制があり、住んでいる区域で通える高校が決められていた。

受験者の上位10%の成績であれば、希望する高校に行けた。

 

要はこうである。

当時高校受験に有利な事は、学業成績は勿論だが、生徒会に貢献していたかとか、

クラブ活動で優秀な成績を収めてたとか・・・・・等々。生徒達もたいへんだ。

よくよく考えてみると、生徒達を実験台にして、卒論を書こうとしてたのだから、

生徒達にとってはいい迷惑だ。開き直って正直に話す事にした。

「放課後の練習は内申書にはあまり関係ない。卒論の・・・・」と言いかけた時・・・

「どうせ暇やし、授業みたいに厳しないなら・・・半分遊びでええの?」と。

正直、嬉しかった。

 

予定では最低10日間だったが、5日で終わらせた。と言うより、5日で成果がでたのだ。

準備運動から始って、みんなの動きを写真に撮って、観察する。この作業を生徒達がやってくれた。

お互いの写真を見て、ケラケラ笑っていた。なんだかとても楽しそうだった。

 

実習最後の日に手伝ってくれた生徒達に言われた。

「毎日アイスクリームありがとう。」と。

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教育実習 Ⅰ

暑い日が・・・

今ブログを書き始めたら、突然の雨が降ってきた。

これで少しは冷やりするのかな?

 

さてさて、先週からのつづきを。

 

大学4年生の秋、二週間の教育実習に行った。

以前にも書いたが、卒論の担当教授は 遠藤幸雄教授だ。

教授から事前にテーマを与えられた。

「君は日大の体操部に所属することになっていたが、違う道に進んでいる。せめて卒論

は、体操競技に関連するテーマを選びなさい。」と。

「はい。」

「体育の授業で体操は、とくにマット運動はあまり人気がない科目だ。生徒達がマット運動に

興味を示すようなことをテーマに実習してきなさい。」

「はい。」 とは言ったものの、まったく???だった。

 

地元に戻り、中学校に相談にいった。さいわい当時の体育の先生がおられたので・・・

「広瀬の担当するクラスは・・・かわいそうだが・・・学年で一番スポーツの苦手なクラスだな。

成績は優秀だが、体育の授業では活気がないな。どうする?」

「どうする?って言われても・・・。」

「ただ、みんな真面目で素直だよ。いい機会だから、運動の苦手な生徒を10人程集めて、

放課後に指導したらどうだ。」

内心 「ひぇ~」と思った。

「あんまり難しい事は、怪我しても困るから・・・ 地転はどうや?あれなら二週間で出来るように

なるやろ。その過程を論文にしたらどうや?」

地転  腕立て前方転回だ。

確かにそう難しい技ではないが、まぁ出来るようになれば多少カッコイイ。

「出来ますかね?」

「それはお前次第や。 まぁ運動が好きではない生徒を、無理やりさせるわけやし、抵抗は

あるやろな。楽しいと思ってくれるかが問題やな。」

 

こうして二週間の放課後特訓が始まったのだが・・・

初日の説明から問題が起こった。  

 

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トランポリン

先週のつづき

 

教育実習生の先生 パートⅡ

トランポリンの得意な先生が体操部にやってきた。

なぜか学校にはトランポリンがあった。

とりあえず地上で空中姿勢の練習から始まったのだが、宙返りのやり方は

ゆか運動と同じなので・・・まぁとりあえず聞くことにした。

見本を見せて頂いた。たしかに高さはそうとう高いが、空中姿勢は基本的に同じだ。

 

とにかく一人一人やってみることになった。

最初はバランスを取るのが難しく、真っすぐ上に跳ね上がれない。

熱血漢の先生が、「怖がるな!」と叫ぶのだが、だれも怖がってはいないのだ。

そなうちに慣れてくると、だんだん楽しくなってきた。

鉄棒で二回転宙返りをするには、車輪のスピードや、体の撓りや、手を離すタイミングや

着地のことまでを考えなくてはならない。しかしトランポリンでは、ただ回って降りてくればいいのだ。

ダブル宙返りの感覚を掴むのには、とてもいい練習だった。 が・・・しかし・・・

 

先生はひじょうに喜んでいたのだが、私たちは思わぬスランプに陥った。

トランポリンでは、自分自身の跳躍力に加え、バネの力で空中高く舞い上がる。

いったんトランポリンから降りると、足がだるくなりガクガクして体操の練習が出来ないのだ。

マット運動の宙返りが狂いだした。

マット運動での宙返りは、タイミングと、腕の引き上げと、跳躍力がうまくかみ合って成功する。

 

教育実習の先生は、「みんながトランポリンを経験したことによって、この先の体操競技にも

きっと役立つはずだ」と、自信満々だったが、少々ありがた~だった。

 

こんな経験を踏まえて、いよいよ私も教育実習に臨んだ。

 

大学四年生の秋。母校の中学に行ったのだが・・・

それは次回に。

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新体操

新体操のテレビドラマが流行っている。

高校だったか大学だったか忘れたが、新体操の授業があった。

歴史から学んだ気がする。たしか・・・・・

スウェーデン体操、デンマーク体操、ドイツ体操だったと思う。

それぞれ背景があって、生理的理論や農民のなんちゃらや、リズム運動~を元に、各国で

独自に発展していったと・・・・・(間違ってたらすいません。)

 

まぁ、日本のラジオ体操みたいなものだった。

全員で腕の角度、足の出す位置などを合わせて動く。

NHKか教育TVで時々やっている(イスなどを使って)体操ににている。

正直あまり楽しいものではなかった。

たぶん・・・最初のころは・・・徒手体操と呼んでいたと思う。

 

ある日教育実習生がやってきた。科目は保健体育で専攻は新体操。

中学には新体操部などないので、体操部の練習に参加。

顧問の先生が、「今日は新体操を教えてもらえ。」と。

体育館の端に一列に並ばされて、全員で一斉に15回ぐらいバク転をやらされた。

するといきなり・・・

「どうして揃わないんだ!同じテンポで横を意識して美しく!!!」

全員顔を見合わせて・・・ポカ~ン。

体操は個人競技である。それぞれのクセがあり、形がある。

跳躍力も違えば、回転のスピードも違う。それを揃えろだと。 なんで?

しかし更に練習はつづく。その日は新体操を教わることになってはいたが、キャプテンが

さすがに切れた。いや、抗議した。

「バク転ばかりやっていると手首を痛めます。」

「揃うまでやる!」

「体操競技のバク転は新体操と違い、宙返りにいくための準備なんです。」

(こころの中で、「そうだそうだ!サーカスじゃあないんだ」)

さすがにその抗議は説得力があった。

教育実習生の先生は、一人で自分の練習をし始めた。

もちろん後で仲良くなったのだが、美しいテンポのあるバク転は、体操競技でも必要で

それが高得点につながるとお考えだったらしい。 なるほど。

 

次の年、後輩の教育実習生がまたまたこられた。やはり保健体育。

しかし今度は・・・トランポリンの選手。

もちろんトランポリン部などなかったので・・・・来た! そう、体操部に。

そして顧問の先生がまたまた、「今日はトランポリンを教われ。」と。

 

この話は次回に。私の教育実習の話も。

 

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エスハチ

先日何十年振りに、懐かしい車とすれ違った。

ホンダ・S800だ。通称 エスハチ。

1960~70年ごろ、ホンダが発売したスポーツカーだ。

 

中学の体操部仲間に、この車に魅入られた友人がいる。

彼が大学時代にエスハチを組み立て、東京まで自慢しにくることになった。

名神、東名をぶっ飛ばして颯爽とやってくる・・・はずだったのだが・・・

朝方電話がかかってきた。当時は携帯電話などない時代なので、公衆電話からだったのだが

やけに10円玉がはやく落ちていく音がする。

「今どこや?」

「静岡過ぎたとこ」

「遅いなぁ」

「事故った」

「えっ!大丈夫か?怪我してないのか?」

「わやくちゃでボロボロや」

「どこ怪我してん?」

「車が・・・かわいそうに・・・死んどるよ」

 

東名高速の出口まで迎えにいった。体は大丈夫そうなのだが、なぜか友人は笑ってた。

「居眠り運転のトラックに追突された。原子炉の蓋積んでたトラックや。追突されて前のトラックの

バンパーの下に突っ込んだ。あかん、死ぬ!・・・ガハハハハハ」

なぜか彼は笑いだした。?????

「あんな、ははは・・・ほんま笑うで。突っ込んだとき、フロントガラスが割れて死ぬと思った瞬間

ポコって音がしてな、フロントガラスがそっくり外れたんや。建てつけが悪かったんやろな。」

 

その夜、私の下宿に来て酒を飲んでた時に・・・・・彼はずっと悔んでいた。

「何がわるかったんやろなぁ?三年やで。三年かけて完璧に仕上げたのに、なんで外れたんやろ。

おかしいなぁ。接着剤が乾いてなかったんかな?斑があったんかな?」

フロントガラスが外れたおかげで、命が助かったというのに、彼は車の不備に不満があるらしい。

 

後日連絡があった。

ぐちゃぐちゃになった車体が運ばれてきたそうだ。すると・・・

「部品たりるかなぁ?もう一回組み立ててみるわ。」

 

彼は今中国で仕事をしている。自転車に乗って通勤しているそうだ。

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オグリキャップ

新作の舞台作品を考えるとき、題材を何にするのかでいつも悩んでいる。

歴史上の人物、特に海外の王室に纏わるエピソードを探し、作品として使用される事が多い。

しかし、どれも何度か上演されていて、新作と呼ぶには???

そんな時はきまって自分が何に感動したかを、思い出してみることにしている。

ある日、いつもと同じように思い出していたら・・・・・

不謹慎だが、それはある年末の競馬中継だった。

1990年 12月23日 第35回 有馬記念

「奇跡の復活」 「感動のラストラン」と呼ばれた、あの馬。

オグリキャップのラストランだ。

 

1990年 第二次競馬ブーム 

バブルに加えて、武豊騎手誕生で女性ファンが増えた。

第一次ブームは、まだ大学生だった。あの歌にもなった、ハイセイコーの時代だ。

余談だが、府中の東京競馬場にはお世話になった。

 

オグリキャップに惹かれた理由は、人生?馬生が波乱に満ちていたからだ。

「地方出身の三流血統馬が、中央のエリート馬をなで斬りにし、トラブルや人が決めた

過酷なローテーションの中で、数々の名勝負を演じ、二度の挫折を克服した。」

最後のレース翌日に書かれた、スポーツ紙の評だ。

まるで何かの宣伝文句のようだ。 名文。

岐阜県の地方競馬 笠松競馬場でうまれ、中央競馬界に。

何度かの怪我を乗り越え、馬主の事件にも巻き込まれ、それでもひたすら走り続けた。

「芦毛の怪物」 強すぎて憎まれたこともあった。勝てないとそれこそ・・・罵声が飛ぶ。

何度か競馬場で彼をみたが、「本当にこれからレースをするのか?」と言うほどノンビリしてて、

カワイイのだ。負けても憎めないのだ。

またまた余談だが・・・ 馬にもスポーツ心臓があることを知った。

引退前は負けが重なり、最終レースで優勝した時に中継アナウンサーが、

「オグリのスポーツ心臓は生きていた!」と叫んだのだ。

多少のハンデを持って生れてきたらしい。そのためかなりの練習、調教がされたと聞く。

 

引退式は、京都、笠松、東競馬場と、史上初の三会場で行われた。

岐阜県笠松町の人口は、当時 2万3000人。 それを上回る、2万5000人が集まった。

しかも馬場に入場できなかった観客が1万人以上いて、最終的には、約4万人と発表された。

すごいことだ。

 

後年、北海道を題材にした作品があり、北海道ツアーがあった時、私は一人で彼に会いにいった。

引退後、北海道新冠郡 優駿スタリオンステーションで放牧されていた。

いつも通りの優しい顔をしていた。

 

馬を題材に作品を作り上げるには無理があるかもしれない。

しかし、1985年生まれ 25年の間にはいろんな出来事があり、ドラマがある。

映画では描く事ができるかもしれないが、私は自分の記憶に留めておきたい気がする。

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古傷

梅雨 鬱陶しい天気がつづく。

この時期になると嫌なことを思い出す。 古傷だ。

 

高校二年生の初夏、インターハイ予選をまじかにひかえていた。

体操競技は、床、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒の順で競技が進む。

準備運動が終わると、先輩方が競技順に練習に入る。つまり床から。

後輩の私たちは先輩の後を追うように練習に入る。だから鉄棒から。

どんな大会でも、予選の点数の高いチーム、または個人が床運動から始まる。

一説には、集中力が一番継続し易い順だそうだ。

 

ある日、いつもどうり鉄棒から練習が始まった。

三回目ぐらいだったろうか、私の順番がきて鉄棒に飛びついた。

大車輪から次の技に移行し始めた時、右肩から違和感を感じた。

かまわず続けていたら・・・・・

「グニュ」と鈍い音がした。そして激痛が・・・そして鉄棒から飛んでいってしまった。

脱臼!!!だ。 しかも間の悪いことに、エバーマットに落ちた時にまたまた・・・「グニュ」と。

外れた肩がまた入ったのだ。  ヒェ~!!!!!

体操競技では、アキレス腱を切ると一流とされている。

切れた腱が太くなり、より強くなると言われている。本当かどうかは?だが、オリンピック選手の

ほとんどが経験している。

 

舞台では膝を痛めた経験がある。靭帯損傷だ。これも最悪だった。

一幕終わりに痛めたのだが、当然二幕がある。

ゴムチューブを膝に巻いて出た。これが悪かったらしい。

腫れてくるは血行を止めてしまうは・・・・・もう大変だった。

 

昔のスポーツ選手は、まず身体を冷やさないことが絶対で、水分補給もだめだった。

プロ野球の投手は、登板し終わっても肩を温めていた。

確か脱臼した時も、冷やした記憶がない。病院での治療も、鎮痛剤の注射だった気がする。

 

早く夏がきてもらいたい。

 

 

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進め、進め!

朝刊を読んでいると、ある記事が目にとまった。宮崎県の口蹄疫に関する記事だ。

口蹄疫に負けず「進め、進め!」

何処かで耳にしたことがある言葉だ。記事を読んでいく間に思い出した。

 

以前書いたが、九州公演の時、反響板に激突したり、声が突然でなくなったり、

舞台装置が本番中に壊れたり、アクシデントが重なっていた。

宮崎公演終了後、居酒屋さんに先輩と食事に出かけた。すると・・・突然

「今日観ましたよ。」 お店の方から声をかけられた。お店のご主人だった。

「ミュージカルを初めて観ました。楽しいですね。でも大変ですね。」と。

まだまだ未熟だった私が、思わず愚痴をこぼしてしまった。

すると御主人が、宮崎県の話しをし始めた。

「知ってます?宮崎は開拓の地なんですよ。大正時代に武者小路実篤さんが仲間と一緒に

来られて、日向の山中に住んでいたんです。畑を耕し、若い人たちを励まし、村人と交流を

深め、日本初の文庫本を作ったんですよ。」 定かではないが、こんな内容だったと思う。

失敗つづきの私にかけて頂いた言葉がある。

「進め、進め ですよ。」

新聞記事によると、開村3年目に母屋が焼けたそうだ。その時に落胆する若い仲間に・・・

「家が焼けた!。それもいいだろう。新しい家がたつ。進め、進め。」

「しなければならないことを、片っぱしからしろ、忠実に。進め、進め!」

あの時ご主人は、進め、進めを私に連呼して下さった。

きっとご主人もつらい時期がおありだったのだろう。

 

サッカー日本代表も、今まさに 進め、進め!だ。

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平成3~5年

今世間はサッカーワールドカップの話題でもちきり。

日本のプロサッカーリーグ、Jリーグが発足した時のことはよく覚えている。

1993年 平成5年だ。なぜかと言うと・・・

二年前の平成3年から私にとって忘れられない事が続いていたからだ。

 

平成3年に末娘が生まれたのだが、顔をみないままにおふくろが他界。

その年の12月、ロンドンに研修に出かけた。

そして翌年には、ブロードウェイにも行かせてもらった。

その時に訪ねた思い出深い場所が、ニューヨークの貿易センタービルだった。

そのビルが平成5年5月に爆破された。

 

平成5年は、皇太子、雅子さまがご結婚された年でもあり、日本中が幸せな気分に

浸っていた。また、初の(?)連立内閣が誕生した。確か・・細川内閣。

 

私にとって、平成3年~5年は・・・・・

ちょうどこの時期に、一本の印象深い作品に出会っている。

「迷子の天使たち」 藤本義一先生の短編小説の舞台化だ。

劇場の5周年記念公演 

演じる側から制作する立場になって、ゼロからの企画の立ち上げで、ずいぶん苦労をした。

稽古開始から二日目に、出演者が入院。舞台稽古初日に主役が岡山まで乗り越し。

休演日に某俳優が骨折等など。

いろんな苦労があったが、舞台の魅力にとりつかれたのも事実だ。

作品を作り上げる。毎日芝居が進化してゆく。作り手の楽しさを痛感した。

オリジナル作品の苦労と喜びを体験すると、他の作品での苦労は、なんとか解決できる。

 

とにかく、平成3年~5年は、舞台制作スタートの時期だった思い出深い期間だ。

 

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熱い?

何十年前だったか思い出せないが、「役者やのぉ!」と言う流行語があった。

「花の応援団」という男の子向けのマンガだったと思う。

 

昨日、今日と菅新内閣がゴタゴタしていた。まさか大臣が・・・辞任とは。

こんな筋書きは誰が書いたのだろう。

一本の脚本に四苦八苦している私にとって、羨ましい才能だ。(皮肉かなぁ?)

まじめに俳優、役者をめざしている人には、あまりいい比喩ではないが、

政界には個性豊かな(?)役者がいるものだなと感心する。

 

菅新総理の所信表明演説を聞いた。53年生きてきて、まともにちゃんと聞いたのは、

田中角栄さんの時以来2回目だ。

言葉や表現が重要な世界に住んでいるが、人を魅了するには、やっぱり 「熱さ」は重要だ。

日本の財政問題が最優先課題で、文化や芸術にはあまり触れてもらえなかったのが残念。

間もなくまた選挙だ。

 

選挙といえば、アイドルの世界でも年に一度の選挙があったようだ。

古くは、「御三家」から始まって、「中三トリオ」「おニャン子クラブ」「モーニング娘」と

時代と共に変化していく。さすがに今はついていけない。

 

何が言いたかったのだろう。????

たぶん・・・

芝居の題材は、昔からその時代を反映する内容が多い。

現代の社会をモチーフにするには、あまりにも話題が多すぎて、何に焦点をあてたらいいのか

迷ってしまいそうだ。しいて言えば・・・・・

やっぱり、「熱い芝居」が作りたいのかもしれない。

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学閥

またまた日本の代表が交代した。

政治の世界ではよく「派閥」と言う言葉を耳にする。

いい方に解釈すれば、同じ考え、方向性を有する人達の集まりだ。

同じように、「学閥」という言葉も耳にする。

体育教師をしていた時に、この「学閥」なる言葉を初めて耳にした。

 

ある日その年のバスケットの授業内容の打ち合わせがあった。

バスケットのルールをどんな授業内容で進めるか。

ゲームを主としてとか、小テストをしてからとか、審判資格を取る為の資料を題材にとか・・・

突然、「広瀬先生どう思う?」

「はぁ、・・・授業内容は統一しなくてはいけませんか?要は生徒に正しいルールを・・・」

一斉に(といっても4人の先生だが)睨まれた。

「バラバラな内容は混乱を招きます。先生によって教え方が異なるのは困ります。」

???????

「生徒達が、楽しく興味を持ってルールを覚えてくれればいいと思うのですが・・・」

火に油を注いだようだった。そしてピシャリと・・・

「広瀬先生の大学では・・・あぁ・・・ 私たちの大学閥にはそんな考え方はありませんから。」

のん気な私は意味がよく理解できなかったが、後日友人の体育教師に聞いてみた。

「体育関係は、日体大出身の考え方と、教育大出身の考え方に分かれているんだよ。

まぁ、学閥ってほどでもないけど、教育方針がだいたい決まってる。」

「へぇ~ バスケットのルールはどこで学んでも同じやろ?」

「たしかに。しいて言うなら・・・スタイルの違いかな。」

 

私は私なりの授業をすることにした。

全員が一度は審判をすることにし、ゲーム主体で楽しく授業を進めた。

違反があった時点でゲームを止めて、内容を確かめるという方法で。

めったに起こらない違反を私がゲームに参加して、わざとファールしたりとか。

けっこううまくいったと思っていたのだが・・・・・体育主任に一言言われた。

「ゲームはいいですが、しっかり準備運動をして下さい。それと、先生があまり夢中に

ゲームに参加しないように。」と。 どこで見てたんだろう。

 

演劇にも多少学閥はあるかもしれないが、共通したルールのようなものは、

あまり存在しないのが救いかもしれない。

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劇場法

今演劇界がざわざわし始めている。

「劇場法」

先日、演出家協会関西支部の会合に参加したときにも、問題になっていた。

全国にある公文協の劇場に関する法整備だ。 賛否両論。

 

日本の演劇文化は、そもそも民間劇場で発展してきた。公共ホールにおける自主事業は、

だいたいがパッケージでの買い取り公演が中心だった。

自主製作で優れた作品を提供し始めたのは、たぶんバブル時代の頃だと思う。

私も民間劇場に勤務していた時に、自分がてがける作品を様々な国の助成制度を活用

しようと試みたが、すべて否定された。

一番の問題は・・・ 赤字公演でなければならないのだ。

まぁたしかに税金を使うわけだから、理解できないわけでもないのだが・・・・・そこで・・・

良質な作品をお客様にてごろな値段で見ていただくために、ある提案をした。

演目によって異なるが、劇場自体を5000円劇場にしてしまおうと。

公演自体は赤字になる。しかし地域での文化発展のために協力するのだから、

年間を通して劇場に助成をお願いしてみた。

まぁ結果は明らかで、民間というだけでボツ。

 

結局民間劇場は、企業の広告の一部だったり、オーナーの情熱に左右されたりしながら

運営されてきている。

公共ホールと言えば両極端あって、お役人が作業として運営されているところと、演劇や

芸術に理解を持って積極的に取り組んで運営されているところがある。

 

この法案に関しても、日本の文化を国として取り組むという考え方と、芸術に政治が介入

する事への不満とがぶっかっている。

デンマークでは、国が積極的にいろんな文化芸術活動を援助するシステムが出来上がっている。

 

今年の秋には、民主党政権下で劇場法は成立するかもしれない。

全国の公のホールに(選別はあるらしいが)予算が組まれ、任命された人が年間の演目を

決定して、みとめられれば支援、助成を受ける事が出来るらしい。

問題はたぶん・・・その基準内容だと思う。

 

昔からだが、何が芸術で、何がそうでないのかは、線引きできるものではないような気がする。

 

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ニジンスキー

ワスラフ・ニジンスキー 久しぶりに彼の名前を目にした。

ニジンスキーの踊った作品 「薔薇の精」「黄金の奴隷」「ペトルーシカ」「牧神等」は、

男性舞踊手なら、誰もが挑戦したい作品だ。

彼の人生をモチーフにした作品がある。

「ニジンスキー・神の道化」

人生の後半は狂気の世界に生きたニジンスキーが、分裂症発病前後の正気と狂気の狭間で

書いた日記をもとに、その生涯をたどった作品だ。

確か、モーリス・ベジャールの振り付けで、ジョルジュ・ドンがニジンスキーを演じた。

 

話が少し飛ぶ。

 

ある時バレエ公演の振り付けに、「日本のニジンスキー」と呼ばれていた先生がこられた。

男性ばかり10人ぐらいの作品だったような気がする。確か・・・「砂漠」???だったと・・・

出演者の一人に松健サンバでおなじみの、真島茂樹さんもおられた。

駆け出しだった私は、とにかくついて行くのがやっとだった。

その先生は、頭にてぬぐいを巻いて、スリッパで振付をされるのだ。

今でもお元気にレッスンされている。一度訪ねてみようと思う。

 

後年、山田卓先生に出会ったとき、山田先生がよく口にされていた。

「この世界でがんばるには、いいライバルが必要や。わしのライバルは関直人やった。」と。

 

ニジンスキーのお芝居もある。映画にもなった。

今一度読んで見ようかなぁと思う。

 

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遠足

ピカピカの一年生がぞろぞろと、家の横の道を歩いて上がってきた。

たぶん、遠足だと思う。

大きなリュクを背負って、楽しそうに手をつないで歩いていく。

幼い頃の遠足と言えば・・・・

六甲山、甲山、服部緑地、須磨水族館、阪神パーク、森永?雪印?の工場見学

王子動物園、京都、奈良公園と若草山・・・等など

 

小学校の遠足で、「徒歩遠足」と言う遠足があった。

当時通ってた小学校の近くに、「武庫川」が流れていて、その河川敷を歩く遠足だ。

かなりの距離だった気がする。おやつが配られるのだが、キャラメルひと箱。

目的地はたしか・・・上流にあった交通公園だった。

 

昭和30年~40年は、高度成長期。中学の遠足は、「大阪万博」だった。

一番の人気パビリオンは、「アメリカ館」。

アポロ13号(たぶん)が月から持ち帰った、「月の石」

残念ながらあまりの混みようで、見れなかった。

唯一印象の残っているのは、「白いトラ」がいたことだ。

大勢の人たちに見られて、疲れていたのだろう。

ずっと悲しそうな顔をして、俯いていたのを覚えている。

 

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おばあさん役

北林谷栄さんが亡くなった。

「日本のおばあさん」を演じる名女優さんだった。

私なりの幼い頃からのおばあさん役と言えば・・・・・

 

(生まれた順)

浦辺粂子さん    1902年~1989年  87歳   

浪花千栄子さん   1907年~1973年  66歳

原ひさ子さん     1909年~2005年  96歳

北林谷栄さん     1911年~2010年  98歳 

南美江さん      1915年~

ミヤコ蝶々さん    1920年~2000年  80歳

賀原夏子さん     1921年~1999年  78歳

菅井きんさん     1926年~

初井言榮さん     1929年~1990年  61歳

 

戦前、戦後に生まれ、どの方の生き様をみても、苦しい人生の中を生きてこられている。

 

浦辺さんを知ったのは本当に晩年で、片岡鶴太郎さんが「小森のおばちゃま」と、

浦辺さんの物まねをされていた。

浪花千栄子さんは関西の重鎮で、「おばあさん役」といったイメージではなかったのだが

どこか祖母ににていたので・・・・・オロナイン軟膏のCMが印象に残っている。

原ひさ子さんは、「踊る大捜査線」が印象的だが、昔の映画をみると、なんともお美しい。

北林さんが明治生まれの最後の女優さんだと思うのdが・・・

 

明治、大正、昭和、平成と日本の激動時代を見てこられた。

演劇の移り変わりを体験し、時代に翻弄されても尚芝居をつづけてこられた。

映画、TV、舞台にと。

この年齢になっても先輩方の話が聞いてみたい。

 

 

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子供ミュージカル

 

子供ミュージカルの作品に出演した時だった。台本製作のお手伝いをしたことがある。

作家から意見を求められたのだが、ことごとく・・・「う~ん」と。

子供が対象の時には通常より制限が多いらしい。

まず、人は殺さない。残虐のシーンはNG。

ストーリーは解りやすく、楽しく笑えるシーンを半分ぐらい入れるそうだ。

上演時間は、その当時(今もかも)授業時間に合わせて、45~50分(一幕)

そして最後に夢を抱いてもらえるシーンが必要になってくる。

 

そんな沢山の制限のなかで、台本が仕上がってくる。ところが・・・・・

「むかしむかし象が来た」(今は「九郎エ門」かな?)の作品に出演することになり台本を読んだ。

「いいのか?これ初演の時大丈夫だったんですか?」と先輩に思わず尋ねた。

なんと劇中で象が死んでしまうのだ。

当時も相当ご苦労があったようだ。

客席で子供達が声を出して泣いてしまい、たいへんだったそうだ。

 

勿論作り物なのだが、鼻も瞼も耳も尻尾も動くし、涙まで流すのだ。

一緒に舞台に立っていると愛着がわく。しかも・・・・・

この象、九郎エ門の生みの親である美術のかたが、稽古中に不慮の事故で亡くなられた。

とても複雑な心境だった。

 

俳優は観察力が必要な職業だ。

この作品に関わった時に、何度か動物園に足を運んだ。

猫の役がついた時は、近所の猫を追いかけまわし、馬が重要な作品では、乗馬場にも通った。

動物園の象の前で観察したことは、動きやしぐさではなかった気がする。

いろんなことが重なっていた時期だったので、自分の心の整理をしていたのだと思う。

 

共演者はみんな人間とは限らない。

俳優さんが一番苦手とする共演者は、子供と動物。

芝居がくわれるからと。

私もいろんな人達と舞台に立って影響は受けたが、美術?に心を動かされた自分に驚いた。

後日、観劇した子供たちから作文が届いた。

「家族がいなくなるのは淋しいです。」とか「お墓はどこにありますか?」とか。

真っ直ぐな感想が寄せられた。

一方子供たちは遠慮などなく感じたことを口にする。

開演してすぐに一番前に座っている子供が必ず浴びせる言葉がある。

「あぁ、おっさんや。」 「大人がやってるんか。」等など。

ある日・・・

「あぁ、すね毛はえてる!」

不覚にも笑ってしまった。

 

何本か子供ミュージカルに出演したが、それぞれに思い出がある。

また、地方によっては反応する場面がちがうのだ。

そしてなによりも教えられたのは、子供たちは自分の興味のある人物を追っかけて見る。

それは主役とかアンサンブルとか関係ないようだ。

しかも細部にわたってみている。

子供たちの前に立つと、いい意味の緊張感がある。

重厚な芝居。大人向きのミュージカル。

私はなぜか子供ミュージカルが好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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おくどさんと五右衛門風呂

何十年ぶりかに懐かしい言葉を耳にした。

先日TVで、「銀シャリ屋」の話が放映されていた。

自然の井戸水と自家製釜で炊き上げる、ご飯一筋の店が閉店する。

ご主人の口から、「おくどさん」の言葉が。

四十年ぶりに耳にした言葉だ。

「おくどさん」

ご飯を炊く釜のことだ。

 

父の故郷 津幡の家は、とても古い造りでとにかく広かった。

土間にふたつの大きな釜があり、毎食その釜でご飯を炊いていた。

土壁でできていた釜に、最初は藁に火を付け、薪にうつす。

時間はかかるが、美味しいご飯が炊きあがる。

母の口癖。

「お家にもおくどさんがあったら、毎日おいしいご飯が食べれるのに。」

 

おおきなお屋敷のような家だったが、お風呂がなかった。

いつも父と近所の銭湯に行っていた。

その銭湯には・・・・・

おおきな浴槽の横に、なんと「五右衛門風呂」があった。

最初私はお風呂の浴槽の前に、なぜ木製のゲタが置いてあるのかが・・・???

「五右衛門風呂」 幼い私には、おくどさんにみえた。

 

今でもきっと何処かで使われている言葉だろうし、釜でご飯を炊いている土地もあると思う。

夏休みに遊びに行った「おばぁちゃんの家」には、いくつもの思い出がある。

冷たい井戸水につけたスイカ。

おくどさんで炊いたご飯。

お風呂屋さんの五右衛門風呂。

豚さんの香取せんこうたてと蚊帳。

 

昭和三十年代の思い出が、懐かしい言葉を聞いてよみがえってきた。

 

 

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タブー

私たちの仕事場は、劇場。

どんな職業にもしてはならない事がある。タブーとでもいうか・・・・・

 

ある作品の舞台稽古の時だった。私はいつものようにメークを済ませると、早めに袖にいった。

自分の歌をかるく口ずさんでいた。ハミングだったかもしれない。すると・・・

「バカヤロー 口笛ふくんじぁねぇ!!!!!!!」

突然怒鳴られた。

振り返ると、職人気質の舞台監督さんだった。

すると、大先輩がニヤニヤしながら手招きで私を呼んでいた。

「お前ハミングしてただろう。それが口笛吹いてると思われたんだよ。」

「???????」

「今はあんまり関係ないんだけどな・・・」

内容はこうである。

「今はスタッフの舞台転換などはインカムを使うけどな、そんなものがない時代はな、

舞台監督の口笛が合図だったんだ。相当昔の話しだけどな、だから以来舞台袖での

口笛はタブーなんだよ。」と。

 

劇場でのタブー、迷信、ゲン担ぎの話しを聞いた事がある。確か・・・

「マクベス」以外の作品に出ている時には、「マクベス」の話しはしてはいけないとか。

そのカンパニーに不幸が起こるらしい。間違って口にしてしまったら、急いで劇場を飛び出し

ドアの外で大声を出して、誰かがドアを開けてくれるまで待ってなくてはならないらしい。

 

本番中にもこんなことがあった。

舞台上で突然、本当に突然なんの前ぶりもなく先輩が私のほうにやって来て、

私の首を抱えこみ(ヘッドロックのように)耳元で囁いた。

「上をむくな!」

私をちがうポジションに引っ張っていき、何食わぬ顔で芝居をつづけた。

「???????」

一幕終了後急いで聞きにいった。

「あのぉ~ さっき何かまずい事しましたか?」

「あ、あれか。お前聞こえなかったか?」

「???」

「頭上でパ~ンって音。」

「???」

「水銀灯が割れた音だよ。水銀灯が割れるとな、細かいガラスの破片がヒラヒラ降ってくるんだ。

その時上を向いてるとな、目にその細かいガラスの破片が入って大変なことになるんだ。

大丈夫だったか?」 なるほど。感謝。

現在の照明機材には水銀灯は使用されていない。

 

舞台経験とは、いろんなことを意味するんだなぁと思った。

 

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さくら

 

桜といえば思い出す場所がある。

千葉県 習志野 総武線 津田沼駅 

1981年4月8日~5月13日 まで、全国公演に出かけた。

初日が津田沼駅前の会館で、改札口を出て歩道橋を渡ると、そこに満開の桜が。

前年の80年に初舞台を踏み、9月15日~12月20日までの超長旅に出たが、

途中ぜんそくになり、10月末にあえなく降板。苦い思い出がある。

二回目の旅公演だ。

 

千葉県 習志野をスタートし・・・・・

甲府、新潟、金沢、京都、名古屋、大阪、博多、小倉、広島、岡山、高松、神戸、

浦和、秦野、山形、仙台、旭川、室蘭、札幌、磐田、横浜、清水、立川 全25公演

「全国旅ができていいですね。」と、よく言われるのだが、実は駅と宿と劇場しか覚えてない。

 

旅公演中のスケジュールは・・・ 前日の公演地から移動。そしていくつかの班に分かれて

ごあいさつ回り。開演3時間前には劇場に入り、アップとリハーサル。そして本番。

終演後は舞台のバラシを手伝い、自分の荷物をボテ(柳行李)に片づけ、夜のお付き合い

に出かける。深夜に開放されて、やっとホテルに戻ってくる。それの繰り返しだ。

唯一の楽しみは、次の公演地が遠距離の場合、一日移動日がある。

 

途中東京に戻れる日が何日かある。私も自宅に帰ったのだが、ドアを開けてびっくり。

すごい臭いがする。急いで雨戸を開け・・・足元を見て・・・畳がカビだらけに。

台所から異臭がする。いつも旅に出る時は掃除をして出かけるのだが・・・

じゃがいもから芽がはえている。怖々と冷蔵庫を開けると・・・ 野菜が腐っていた。

??????? よ~く見ると・・・ コンセントが抜けていた。ひぇ~。

たぶん出かけに間違えて抜いていってしまったのだろう。

 

旅公演には旅公演手帳がもらえる。いろんな情報が書いてある。

そのひとつに移動手段、交通の欄がある。

(急)アルプス5号 (特)とき20号 (特)はくたか 宇高フェリー (特)つばさ

(特)月山 (特)ライラック8号 等など 懐かしい名前だ。

東北、上越新幹線がない時代だ。もちろん、東海道ものぞみなどなく、ひかりかこだまだ。

 

話をもどそう。

 

習志野の桜を見て、「今年はこれが見納めか。」と。西に向かって進むのだから、

「もうゆっくりみれないなぁ」と思っていた。

五月に入って北海道公演のため、旭川に向かった。旭川空港の上空にさしかかった時、

眼下には一面の桜が咲いていた。美しい眺めだった。

その日は北海道の夜桜をゆっくり堪能した。

 

今年は例年になく長く咲いている。週末あたりから、一斉にはなびらが舞い始めるだろう。

 

 

 

 

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甲子園球場

東京にいたころ「故郷は何処?」とよく聞かれた。

「西宮、甲子園のある町だよ。」

「大阪なんだ。」と。

関東の人は甲子園が大阪にあると思っている。今はどうかわからないが。

 

西宮で育った私は、何度が甲子園球場の土を踏んだ事がある。

西宮市のすべての小学校が一同に集まって運動会をする。

また、西宮市のすべての中学校が一同に集まって運動会をする。

そこで学校対抗のリレーがあったり、組み体操があったり・・・・・

 

春と夏には高校野球が行われる。

夏休みにかち割り(氷をただ砕いたもの)を売るバイトをしたことがある。

けっこうな体力が必要なんだが、なにしろバイト代が当時としてはよかったのだ。

困った事はただひとつ。売れるのが先か、氷が溶けるのが先かなのだ。

 

西宮市は昔から宮水が有名で、お酒造りがさかんな町。

甲子園球場のすぐ横にプールがあり、そこの水は地下水をくみ上げている。

とても冷たい水なのだが、なぜか泳ぎやすいのだ。

阪神パークという遊園地もあった。

甲子園球場で花火大会もあった。もちろんタイガースの試合も。

 

春のセンバツはもう終わる。

今年はひさしぶりに真夏の高校野球をみにいこうかな。

 

 

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宮崎

中学時代の友人が、宮崎県日南に引っ越しする事になった。

彼とは小学校からの友人で、中学時代は体操部で一緒だった。

 

宮崎県には有名な釜揚げうどんの店がある。(店名が出てこない)

四季時代に宮崎を訪れる度に、先輩に連れられてうどんを食べにいった。

当時から宮崎は巨人軍のキャンプ地で、店にはたくさんの選手のサインが飾ってあった。

そこには、劇団四季〇〇さんの色紙も飾られていた。

 

数年後、後輩を連れてその釜揚げうどん屋さんに行った。

出来立てのうどんを美味しく食べていたとき、後輩の一人がうどんを口から・・・・・

口を押さえ店の出口に走りだし、表に飛び出た。

「何があったんだ?」

後を追って私も表に出た。すると、何故か腹を抱えて笑っていた。

「どうしたんだ?」

「店の壁にあった色紙見ました?」

「どの?」

「〇〇さんの色紙です。」

「あぁ、昔からあるよ。」

「見てきてくださいよ。」と。

言われるままにもう一度店に入って見慣れた色紙を見てみた。・・・・・・・

私も笑いを堪えて表に飛び出した。

 

ずらっと並んだ野球選手の色紙に混じって、今では有名な俳優さんの色紙があった。

もちろんその方は私たち劇団の先輩だ。しかし・・・その色紙の下のほうに・・・

付箋が貼られていた。

「この人誰?」と。

いたずらかもしれないが・・・おもわず・・・笑ってしまった。不謹慎にも。

また宮崎に来られる事もおありだろうと、こっそりはがしてはきたが。

 

全国ツアーに出ると、いろいろおいしものに出会える。

旅はいいものかもしれない。

 

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自然

朝起きて雨戸をあけると、どこからとなく、鶯の鳴き声が聞こえてきた。
梅の季節に鶯は鳴く。  「梅に鶯」なんだっけ? あぁ・・・花札。
 
近所では色々な生き物を目にする。引っ越し当初にわが目を疑ったのは・・・
ある日自宅前の空き地に、黒いまん丸いものが蠢いていた。しかも親子で。
ネコ? 親らしきほうがこちらをにらんでいる。
草がぼうぼうと生えていたので・・・ガサガサと音を立て、道に出てきた。
タタタタ タヌキだぁ!!!!! 
こっちの事は気にすることもなく、おしりをふりふり、の~んびり歩いていった。
 
春先には、毛が抜け落ちたキツネも見た。口に餌を咥えていた。ネズミ。
 
当時は山陽新幹線のトンネル工事のため、六甲の山々が騒がしくなってきていた。
そのためか、ついにイノシシが山から下りてきた。
 
庭には、モズや鶯。
コンコンコンコンと音がした。大きな木に、キツツキがいたこともあった。
 
40年住んで、一番驚いたのは・・・・・
家の前に水路がある。ある日その水路に首を突っ込んでいるなにかがいた。
またタヌキか。いやいや、なんだかもさもさしている。
首をあげこっちを見た。やっぱりタヌキだ。あああ・・・手になにか持っている。
するとまた首を突っ込み、バシャバシャと音をたてている。
ああああ アライグマだ。!!!!!!!!
ペットとして飼われていたのが、逃げ出したのかもしれないが、確かにアライグマだった。
 
残念ながら最近は、イノシシ以外あんまり見かけない。
みんな何処行ってしまったのだろう。 少しさびしい。
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今から四十年前父が「家を建てる。一度その土地を見に行こう。」と。

母のオンボロ車で出かける事にした。西宮と芦屋の境で、少々高台にあるらしい。

「もうすぐだ。」

車が坂を上りかけた。閑静な住宅が建ち並んでいる。

坂道の行き止まりが・・・ そこには神社があった。越木岩神社。

「その横のじゃり道をあがるんだ。」と父。

家が一軒も建ってない。昼間なのになんだか薄暗い道。そしてふた筋めに・・・

「そこ、そこや。」

三叉路の角の土地?というより草ぼうぼうの荒れ地だった。母が一言。

「此処どこ?」

帰りの車中は、母の質問の嵐。

「水道は通ってんの? 一番近い駅まで何分? 買い物は何処ですんのん? 電話線は?・・・」

そして・・・

「ガスは?」 それまでなんでも丁寧に答えていた父がぼそっと。

「プロパンや。」すかさず母が、「絶対嫌!」

 

数ヵ月後の春、地鎮祭のために再度行くことになった。

オンボロの車が坂道にさしかかった時、母が声をあげた。

「うわぁ~きれい!」

道の両側に満開の桜。まさに、桜並木だ。

 

あれから40回もこの風景を見てきた。まもなくまた桜が咲く。

家の周りも賑やかになってきた。

41回目の桜並木は・・・ひさしぶりにゆっくり歩いてみようと思う。

 

 

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趣味

 

私の母は59歳という若さで人生を終えた。母の兄も確か59歳で亡くなった。

人に、「趣味は?」と聞かれると、「将棋とパチンコ」と答える私。

その将棋を教えてくれたのが、伯父だ。

伯父は不思議な人だった。京都の野球の名門高校で甲子園を目指していたらしい。

戦争行き、鉄砲弾が歯にあたり、以降総入れ歯になったらしい。

「あたった弾はここにおる。」といつも盲腸のあたりを指して自慢するのだが、眉つばものだ。

 

戦争から戻り、一流商社に勤めるのだが、あっさりと退職。

自宅を改装して録音スタジオをつくり、何かの番組を制作していたようだ。

昭和42~3年頃の録音機材は、手でガチャガチャするテープレコーダーだけだった。

幼い私の歌をときおり録音してくれるのだが、歌わされる歌はいつも決まっていた。

村田英雄さんの、「王将」だった。」 吹けば飛ぶよ~な 将棋の駒に~・・・

 

京都 烏丸鞍馬口が母の実家で、行けば必ず伯父が、「一局やろう。」と。

始まった。いつものパターンだ。

将棋を指しながらウイスキーを飲む。肴はハムだけ。そして・・・

「正勝 おっちゃんはな、プロの棋士になりたかったんや。戦争さえなかったら・・・・・

ええか、 おまえはサラリーマンになれよ。」 小学生の私には?????だった。

 

数年後、病床に伏せる伯父のお見舞いに行った。

いつもと同じように将棋板を出してきて、「一局やろう。」 そして・・・

「正勝 お前なんかのプロになれ。プロになるまでには苦労は多いけど、

きっと人生は楽しいぞ。生まれかわったら、おつちゃんは絶対棋士になる。」

その一局が最後だったのだが、鬼のように強く、叩きつぶされた。

ちなみに伯父はアマ四段。私も初段ぐらいの実力はあったのだが・・・・・

 

飽食の時代に栄養失調で逝ってしまった。

 

今、伯父の「プロになれ。」の言葉が、なぜか耳に聞こえる。

 

 

 

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変化

創業 1870年 名門 神戸元町 「オリエンタルホテル」

阪神大震災で全壊、廃業していたホテルが、来月復活する。

幼いころ家族で神戸にでかけるたびに、オリエンタルホテルのカレーを食べにいった思い出が・・・

幼いころの思い出の場所は、時代とともに次々とかわっていく。

 

かわるものと、かわらないもの。

 

先日ひさしぶりに上京し初めてすんだ街に行ってみた。

京王線 千歳烏山 34年前に初めて住んだ街だ。

六畳一間に猫の額ほどの台所と、タイル張り様式トイレになんとシャワァーがついていた。

風呂代 40円の時代。

20000円の家賃は、50000円の仕送りから捻出できる限度いっぱいだった。

ここからスタート 大学、バイト、レッスン、恋愛・・・・・

旧甲州街道沿いをぶらぶら歩いて、仙川の友人宅によく行った。

また機会があれば、自分のすんだ街をぶらついてみようと思う。

千歳烏山、国領、初台、幡ヶ谷、すべて京王沿線だ。

 

話しが飛ぶ。

 

ひさしぶりに大学時代の友と会った。湘南の海岸沿いのレストランで。

まわりの風景はずいぶんと変わったが、波の荒荒しさは変わらない。

変わるものと、変わらないもの。 

見た目はもちろん老けた。あたりまえか。だが、仕草や口調、性格はかわらない。

髪が薄くなってもセットは昔通り。

現実は、大病をして生死を彷徨った友。今まさに生死と戦っている友。

暗い話しになりかけると、私たちの世界の話題になる。

定年はないが収入は不安定。しかし夢があると思われている。

否定するわけにはいかない。若き日 彼達が支えてくれた。

ご飯を食べさせてくれ、まったく興味のないバレエのチケットを買ってくれ、

へたくそな私を、「凄いな、よかったよ。」とヨイショしてくれた。

「友情は変わらない」 と思いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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芝居制作

 

前から考えていた事を、いよいよやってみようと思う。舞台作品の上演方法だ。  

日本ではアメリカのようなトライアウト形式は馴染まないし、費用もかかる。

ある程度稽古を重ねた段階で、試演会をやってみようかと思う。

公開の通し稽古と考えればいいかもしれない。納得がいく意見があれば修正する。

一度作り上げると、なかなか変えることには勇気がいるのだが。

なぜなら、その日まで時間をかけて稽古してきたことが、無駄だったように感じるからだ。

 

稽古初日に手にした台本の内容と、上演内容が異なっていても、なんら不思議ではない。

問題はだれに見てもらうかだ。無論一般のかたも必要だし・・・

劇評家、芝居仲間、スタッフ、うう・・・  浮かんでこない。

 

演出をころころ変えていいものか悩むだろうなぁ。「ころころ変える」のではなく、

よりいいものが見つけられたのなら、本番初日でもチャレンジするべきだ。

 

きめ細やかな芝居制作をしょうと思う。そして評価を受けたい。

 

 

 

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歌、唄は奏でる Ⅱ

 

先週のつづきを少し。

 

山下美音子先生のレッスンは、30~40分みっちりと発声練習から始まる。そして課題曲。

まず、楽譜通りに練習。ほとんどが英語の歌詞だ。OKがでると次は崩して練習してくる。

ところがだ、「崩して歌う。自分流に。」がわからない。だんだん苛立ってくると・・・

たった一度だけ見本で歌ってもらえる。録音し家に帰って物まねが始まる。

厳しかったのは、発音だ。日本語では余計に厳しかった。

アクセント、鼻濁音、無声音、母音、子音等など。 そして・・・

「歌、唄は奏でるのよ!」と。

技術的におぼつかない私にも、高い?ダメが飛ぶ。 

今でも毎日レッスンをされてるようだ。パワフルに。

 

さて今年の劇団の演目に少し触れておこう。

「エリザベス」 今私が興味を魅かれている。メアリー女王との経緯(いきさつ)。宗教問題。

大国スペインとの戦い。一人の女性が担うには、あまりにも大きな事項。

生涯英国を愛しつづけ、個人の人生を犠牲にしても立ち上がった彼女には、魅かれるものがある。

たくさんの作品で描かれてはきているが、私もチャレンジしてみたい。

 

 

 

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歌、唄は奏でる Ⅰ

 

今日から何回かにわたって歌の話しをしょう。

 

ミュージカルがしたいがために東京に行き、レッスンを始めた。

クラシックバレエ、ジャズダンス、タップダンスと稽古場を探し、順調にレッスンをしていた。

残るは歌だ。

当時私は親からひと月 50000円の仕送りをしてもらっていた。

新大阪ー東京間 10000円弱 お風呂屋さんが 40円の時代だ。

いろんな人に聞きまくった。条件は 10000円までで。

家賃が 20000円 その他のレッスン代が 28000円 深夜~朝方までバイトをして

なんとか捻出できる金額がそれしかないのだ。 聞けば歌のレッスンは高いらしい。

 

ある日バレエのレッスン後に、新宿コマダンサーのお姉さんが、

「広瀬君、いい先生いるわよ。ただ・・・ちょっと怖いけど。」と。

山下美音子先生。 劇団をご夫婦でなさっている。

さっそくコンタクトを取り、明大前のご自宅にレッスンに行った。

一目みた瞬間・・・  「やったぁ 怖そう。上手くなれる!」だった。

丸いお顔にギョロッとした目。ポッチャリ体型でハスキーボイス。

儀礼的なあいさつを交わすと、さっそくレッスン。発生練習だ。ただひたすら声を出す。

15分後 ピタリとピアノが止まる。そして一言。

「ひどいねぇ あんた。」 ひぇ~・・・・・・・・ 

レッスン中断。そして・・・質疑応答タイム。

「なぜ習いにきたのか?」「何になりたいのか?」「誰をめざしてるのか?」「生活は?」等など。

まるで面接だった。そして突然・・・

「7000円」

「はぁ? 一回 7000円ですか?」

「バカ そんな高いわけないでしょう。一か月 4回 7000円 マッサージ付き あぁ 2回ね。」

当時大学でスポーツマッサージの講義を受けている話しをしたからだ。

「私 肩こり凄いの。」

私はすんなりOKしたのだが、これがまた本当に凄い肩こりを後で知ることになる。

一日最低でも、7~8人の稽古をつけているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

マッサージ付きレッスンの日は、決まって一番最後。夜 19時からのレッスンだった。

だぶん金曜日だったと思う。

てっきり私はあくる日が休みだからと思っていたのだが・・・・・

山下先生について行こうと思ったのは、後日談からだ。

2週間に一度先生は、ご自分のピアノのレッスンに行かれるそうだ。それが土曜日。

私がマッサージをした次の日だ。一度訊ねた事がある。

「なぜピアノのレッスンにいかれるのですか?」

「え?」

愚問だった。歌のレッスンに来る生徒のためににきまっている。

 

こうして、一月 4回 1時間 7000円 40分のマッッサージ付きのレッスンがスタートした。

罵声とお腹へのパンチが飛び交うレッスン。

 

   次週につづく・・・

 

 

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続 ブログ

 

私のブログを読み返してみると、「いづれまた」とか、「続きはそのうちに」がよく出てくる。

今日は書きかけになっている文章を、少し先に進めてみることにする。

 

「人間になりたがった猫」公演の事件編

鹿児島からスタートして何公演目だったか覚えてないが、佐世保で事件?は起きた。

順調に公演が進み、あと10分ぐらいだったと思う。

私は出会った人々と別れを惜しみながらも、生まれ故郷に戻る決意をする。

「みなさん、さようなら」

上手に引っ込んだ後はホリ裏を駆け抜け、下手にいかなくてはならないのだ。

実は上手に引っ込んだ時に、何かにぶつかってそこから数十秒記憶が飛んだ。

舞台袖の反響板に正面衝突。気がつくとかすかに歌が聞こえてきた。

ライオネルが去った後、村の人達が「ライオネルを探しに行こう」という歌を歌っているシーンなのだ。

いつもは客席に向かって歌うのだが、袖で倒れている私を起こそうと、袖に向かって歌っていたのだ。

「やばい 下手に行かなくちゃ」

かろうじて次の出番に間に合ったのだが、「スタンバイが遅い」と事情をしらない先輩に怒られた。

終演後楽屋に謝りに行った。すると・・・大笑いの声が廊下に聞こえてきた。

「広瀬ってほんとびっくりさせやがるぜ。上手に入ったとたん、バーン フラフラフラ バターンだもな。」

「反響板にぶっかつて気絶した奴なんて初めて見たぜ。」

「あいつ気がついて、俺たちのほう向いて手ふってやがんの。心配してんのに笑かしやがる。」

「まぁ怪我しなくてよかったな。」等など。

廊下で大声で叫んだ。

「今日はすいませんでした。」と。 それですましてしまった私。

 

あくる日か?何日か経ってか思い出せないが、朝起きると声が出ない。 びびびっくり!!!

病院に飛んでいき・・・ううううう・・・ 生まれて初めてノドに注射した。怖かった。

初舞台から一年も経っていない私にとって、あまりにも過酷な経験だった。

 

日々なにが起こるかわからないのが、生の舞台。一瞬たりとも気が抜けない。

舞台の緊張感は好きだった。今も袖にいると緊張する。

 

さて、話しはまた飛ぶ。 J・D・サリンジャーが亡くなった。「ライ麦畑でつかまえて」の作者だ。

91歳。 天寿を全うした。社会との接触を拒み隠遁生活を送っていたと聞く。

何歳だったろう。「ライ麦畑~」を読んだのは。 一度だけでは理解ができず、何年か放置していた。

合掌

 

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芝居の題材

 

久しぶりにいろんな本を読んだ。最近無償に活字が恋しくなる。

ジョセフ・オットー・ケッセルリンダの「毒薬と老嬢」だ。

賀原夏子さん率いる、劇団NLTが二十二、三年前に上演している。

確か・・・銀座博品館劇場だったと。

見るからに品のいいお人よしのおばあちゃんたちが、12人もの老人を殺し、

少しも悪びれていないという話。お腹を抱えて笑った記憶がある。

 

翻訳作品は俳優の力量が必要だ。反対に・・・

新作作品はキャラクター作りが重要になってくる。

 

新作の題材探しをしているのだが、なかなか難しい。

歴史をさわがせた女性はたくさんいるのだが、ほとんどが芝居か映画化されている。

イサベラ、エリザベス一世、メアリ・スチュアート、マリア・テレジア、ジャンヌ・ダルク

西太后、エレクトラ、サロメ、クレオパトラ等など。

夙に有名なのが・・・オーストリア最後の皇帝 フランツ・ヨーゼフ一世の妻 皇后。

あの美貌の エリザベートだ。彼女を扱った作品はたくさんある。

 

いろんな国の最後の皇帝、カイザーを描くと、そこには必ず皇后の苦悩が描かれている。

ロシア最後の皇帝 ニコライ二世の妻は、あの伝説のラスプーチンに翻弄されている。

こうした歴史的背景は、あまり勝手にかえる事はできないのだが、新解釈は可能だ。

 

難しい方、難しい方に考えがいってしまう。あまり深く考えるのはやめよう。

見て楽しい作品は決まりつつある。

THE 新劇的作品 もう少し悩んでみようと思う。 

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「演劇取材の現場と劇評」

 

先日、関西演出家協会関西ブロックの企画に参加した。

「書く側」と「書かれる側」の双方の意見を聞き、沈滞気味な関西演劇界を、「何とかしょう」という事だった。

パネラーは、朝日、毎日の演劇担当記者と、演劇批評家の先生だ。

う~ん・・・  一言で言えば、残念だった。

どの職業も不況の嵐で、それぞれの会社事情を聴くだけになり、「泣き言」の・・・・・

 

私より上の世代では、銀行が潰れる事は予想できなかったし、新聞の必要性が見直される

時代が来るとは、思ってもいなかった。と、思う。

劇評は対象になる作品が生み出されてこそ成立する。

しかし掲載する紙面が少ししかなく、メジャーなものが優先するらしい。

 

一昔前の舞台の宣伝活動といえば、広告を出したり、TVスポットを打ったり、チラシを撒いたり、

ポスターを貼ったりだった。手間とコストがかかる。

取材にしても、企画書を送り、電話で連絡を取り、できれば稽古場取材をしてもらい、

そして作品を観てもらい、劇評をお願いする。

結果、辛口になっても受け入れる事ができたが、今はそんな時間的余裕がない。

 

取材される側の立場として何が困るのかと言えば、記者の顔が見えない事だ。

顔が見えない? 

どんな価値観(舞台、演劇に対して)を持っているのかが分かり難い。

以前担当記者が来れないので、別の部署の記者が来た。聞けば何と・・・囲碁担当の記者。

ブチ切れるわけにもいかず、かといって取材をキャンセルするわけもいかず、(タレントがスタンバイ

しているので)仕方ないから私が質問して取材を進めた事がある。

こういった事は、重大な事件が起きた時には、「仕方ない」と諦めるしかない。

よくよく考えると、取材する側も同じ事を感じているのかもしれない。

どんな考え方で、なにを伝えたい集団なのかもわからないのに取材は出来ないと思う。

 

「信頼関係」があってこそ成立する。しかし、信頼関係を築く時間的余裕や機会がない。

なぜか、悲しい。

明確な基準がないこの世界。評価は難しいし、劇評によってお客さんが急激に増える事もない。

日本での舞台文化は、なかなか認知され難いと、後ろ向きな考えになってしまう。が・・・

 

話がいつもどうり飛ぶ。

 

久しぶりに、サミーデービスのビデオを見た。やっぱり私にとっては凄い人だ。

何か落ち込んだり、考えが行き詰ったりしたときにいつも見ているいるのだが、

いつ以来だろう。本当に久しぶりだ。

若い人にとってはあまり興味がないかもしれないが、「偉大なエンターティナー」だ。

 

とにかく、「情熱」しか取り柄がないので(青臭いが)、早く舞台作りをしたい。

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新劇

先日懐かしい言葉を耳にした。
「広瀬 今なにやってんの?」
「芝居」
「へぇ~ 新劇か。」って。
新劇 久しぶりに聞いた言葉だ。
 
ヨーロッパ的演劇を日本に広めだした頃の言葉だ。
それまでの日本演劇?は、歌舞伎や新派が中心の商業演劇で、新劇は海外の作品を翻訳して
芸術的思想で上演されていたらしい。詳しくは私も知らないが、たぶん・・・
劇団築地小劇場が始まりだったと思う。その後、文学座、俳優座、民芸と受け継がれていった。はず・・・
東京に遅れること何年かわからないが、1957年 関西芸術座が発足。私と同い年だ。
 
今私は、日本演出家協会関西ブロックに入っている。毎月会報誌が送られてくる。
年配の演出家の方々は、新劇=東京 と言う時代を生きてこられている。
新劇からアングラに。アングラから小劇団ブームに。今はいったいどんな時代なのだろう。
 
昨年 関西の小劇団事情がTVで取り上げられていた。
大阪扇町の空間が閉鎖され、近鉄小劇場もなくなり、阿倍野のアート館も・・・
大阪城ホールの倉庫が唯一活動の場所になっていたが、退去が決定した。なんだか少し寂しい。
 
元来が楽観的思考なのだから、あまり深く考えないことにする。
楽しい新作のミュージカル、大笑いのできるコメディ、そして・・・ 
THE 新劇的作品を今年は上演する。
(日本の作家の作品も密かに・・・・・三島?石原?太宰?う~ん・・・)
 
乞うご期待。
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舞台人

新年 明けまして おめでとうございます。
 
平成8年8月8日に会社を設立。翌年研究生のオーディション後(50名以上から選んで)21名でスタート
一年間の厳しいレッスンが始まりました。
最初に頭を抱えたのは、言葉でした。ダンスや歌はどこにいても学べますが、言葉の問題は・・・・・
関西では標準語に対して、強い反発感があり、何度説明してもなかなか信じてもらえなかったです。
標準語ではなく、共通語。どの地域に育っても解り合える言葉。
関西弁は、生活感がないと話せないアクセントです。方言も。決して馬鹿にしているわけではないのに、
抵抗があったようです。
 
劇団を旗揚げする際に友人にいわれました。
「時代に逆行している。今更劇団なんて・・・歳を考えなさいよ。」確かに 40歳では遅すぎるかもと。
「人の人生を背負うのよ。責任もてるの。」とも。また・・・
「関西はお笑いの文化。言葉に苦しむよ。」ごもっとも。しかし・・・
 
「誠実な舞台作品を上演したい。」の思いがつのり、踏み切る事にしました。以来12年。
沢山のメンバーが入ってき、去っていきましたが、「初心を忘れず今年も」と考えています。が・・・
今年は上演作品に新たな考え方を加えて、チャレンジしてみようと思っています。
 
「舞台人」 この響きがすきです。
 
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
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来年は・・・

今年のブログを全部読み返してみました。いろんな出来事がありましたが、自分のを読んでいてびっくりしました。
なんと、思い出話しばかりで。すいません。
結局今日もそんな感じになりそうなんですが・・・・・
 
今まで仕事をご一緒させて頂いた方々から、いつも同じ質問をされます。まぁ半分は儀礼的かもしれませんが。
この世界に入った理由と、現役を辞めた理由を。つい最近も聞かれました。
以前にも掲載しましたが、ジーンケリーとアステアになりたくて・・・・
日本で同じ事をするためには、どうしたら、どこに行けばいいのかもわからず、姉に相談。姉の事を少し・・・
 
姉が中学生の時、なぜか大阪に芝居を見に行きました。それを知った父が、えらく怒っていた記憶があります。
後年姉と東京で暮らしていた時に訊ねてみました。
「あの時、何見に行ったの?」
「白痴」
「???」
「松橋登さんの作品」
「???」
「劇団四季の初地方公演の演目よ。」
「へぇ~」
そして・・・
「あんたミュージカルやりたいねんやろ?」
「うん。」
「大学卒業したらどうするの?」
「何も決まってないけど、まぁ当分はまだレッスンする。」
「ほら、ここ受け。新聞にオーデションの記事載ってたよ。コーラスラインだって。」と。
 
日大芸術学部に通いながら、バラ座、文学座、演劇集団円、青年座と渡り歩いた姉には
ミュージカルは縁遠いものだったようだ。
ただ「白痴」をみていたので、ミュージカルしかしないわけではないと思っていたようだ。
 
ドストエフスキーの小説 「白痴」は舞台にも映画にもなっている。とても難解な作品だ。
劇中にはいろいろ使用してはいけない言葉もでてくる。
この手の作品が上演された時代は、反社会(政治に対して)の風潮があった。
 
話しがまたまたそれたかな?整理、整理。
 
劇団四季をやめる時に姉に聞かれた。
「なんでやめるの?」ではなく、「何がよかった四季では?」だった。
この話しは長くなるので、年明けにお伝えする。
 
劇団てんも、「白痴」のような大作にチャレンジしようと思う。
社会から多少の批判を受けるかもしれない。観劇後に爽快感がないかもしれない。しかし・・・
作品作りで、肉体ではなく、頭が汗をかくぐらいの稽古がしたい。
一番の問題は、私が作品を理解できているかどうかだ。
「エクウス」「カッコーの巣を越えて」「カラマーゾフの兄弟」「ひばり」・・・
いくつか挑戦したい作品がある。
来年は重厚な作品と、コメディを何本か上演したい。
 
それではみなさんも、よいお年をお迎えください。(あれ?そうか今日はクリスマスだった。)
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忙中 閑?

寒い!寒い! さぶいです。 本格的な冬の到来です。
TVでは各地の降雪情報を伝えています。雪がふりだすと、身体がムズムズします。
そう、スキー!!!
 
初めてのスキーは、小学生の時でした。
神戸六甲の人口スキー場。雪がザラザラで、ベタベタしてたのを覚えています。
兵庫県北部に、神鍋スキー場があるのですが、シーズンオフはゴルフ場になります。(40年前の話し)
 
北海道 手稲、ニセコ、大雪山。山形県と宮城県をまたいでいる 蔵王。
八方、赤倉、菅平、黒姫、天元台、志賀高原、猪苗代、苗場 等々 いろんなところに行きました。
当時は東北、上越新幹線もなく、夜行列車かバスでした。
 
 
一番のお気に入りは、やはり 蔵王です。
山の頂上からスキーを担いであがり、樹氷原の新雪をすべるのが最高でした。
また蔵王は、右?北?に降りると山形県。左?南?に降りると宮城県で、雪の質も違うのです。
その蔵王で怖い思いもしました。
冬眠中のはずの熊が、なんとゲレンデにいたのです。大騒ぎ!
 
スキー用品もずいぶんと進歩しました。
初めたてのころは、ストックは竹。靴は皮の紐靴で、雪がどんどんしみ込んできて、中はグチョグチョ。
パンツはトレンカと呼ばれ、裾が細く靴の中に入れ込むタイプ。
ダウンが発売された時、真っ先に買いにいきました。暖かく軽い。革命的でしたね。
板には多少のこだわりがありました。
ヘッドの黒くて長くて重いタイプ。扱いにくいのですが、まぁ よく滑るのなんのって・・・。
水に浮かぶ板が出てきた時は少々呆れました。
 
さて・・・
 
大学に通い、レッスンに明け暮れ、夜中はバイト。
そんな中で、冬のわずかな時間を楽しんだ思い出。忙しければ忙しいほど、ひと時の楽しい時間をすごせる。
 
2010年は、劇団活動、舞台制作に忙しくなれるようしなくてはと、最近つくずく思います。
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兄貴

今日ラジオでジャニーズの事を紹介していた。
少年野球チームだったジャニーズが・・・
1964年 デビュー あおい輝彦、飯野おさみ、中谷良、真家ひろみ
 
私のダンスの師は、山田卓先生。兄貴分が、飯野おさみさんだった。
飯野さん(通称 チャミさん)は、1968年ジャニーズ解散後渡米された。
40年前のNYの話しを聞いた事がある。
「ウエスト・サイド~」の映画に触発され、ミュージカルを志す。
一日 最低でも4レッスン 帰国後劇団四季に入る。
 
以前ブログに書いたが、「広瀬の悩みは・・・贅沢病」と諭してくれた人だ。
 
研究生のころ、チャミさんのダンスレッスンがあった。
嬉しくて、だれよりも早く稽古場に行き、稽古場のセンターを確保した。ところが・・・
いざレッスンが始まると、いっさい振り向いてくれない。言葉で説明しながらレッスンが進む。
よく見ると、チャミさんも一緒に身体を動かしている。つまり、ご自分のレッスンをされてるのだ。
終わってみれば、だれよりも汗をかいているのはチャミさんだった。
現役プレーヤーの姿を垣間見た。
 
ある日チャミさんが稽古場の隅の方で、汗をダラダラ流しながら一人でウォーミングアップをされていた。
半径1メートルぐらいの中で。今までに見たことのない動きだった。思わず聞いてみた。
「何のレッスンですか?」
「これか? ルイジっていうんだよ。ルイジ・ファチュートの基礎レッスン。」
「?????」
「知らないのか? ジャズダンスの基礎を築いた人だよ。ダンスの神様かな。」
「?????」
「ジャズダンスのアームスの形を考えた人で・・・・・教えてやろうか?」
「はい お願いします。」
(興味のある方は、ルイジ・ファチュートで検索してみて。)
しかしこれが大変だった。今風に言えば、ヨガ的要素が入っていて、30分ぐらいなのだが、キツイのなんのって・・・
膝をやわらかく使いこなすダンスが元になっていて、加えて、アームスの動きが止まる事なく進む。
その当時LPレコードがあり、それを一通りかけてアップをしていた。片面30分ぐらいだったと思う。
 
今日も古い話しになってしまったが、ルイジのダンススタイルは、いろんなダンスがある現代でも通用する。
 
兄貴 チャミさんには本当にお世話になった。 元祖 アイドル 
またいずれご紹介する。
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ボツ企画Ⅱ

プロデューサーとして最初の仕事は、演劇集団「円」の「欲望という名の電車」公演だった。
主演は、岸田今日子さん。
岸田さんのお父さんは、劇作家で文学座の創立者の一人だ。
岸田さんは当時から不思議な感性の持ち主で、どこか物悲しく思えた。
三島由紀夫さんの演出で、「サロメ」の主演をされている。ずいぶんと昔の事だが、ぜひ見たかった。
若い世代の人達には、アニメ「ムーミン」の声と言った方が分かりやすいかも。
 
劇場のプロデューサーの仕事は、大きく分けて二つある。
作品そのものを交渉して、買い取り、興業する。もう一つは、ゼロから企画・立案して、興業する。
どちらも二年以上前から準備に入る。
何本か買い取り公演を進めながら、いつかは自分の企画作品をと考えていた。
日本の演劇界老舗 文学座の公演を担当したのだから、どうせなら・・と考えた。
ミュージカルがやりたくてこの世界に飛び込んだのだから、ミュージカルの原点のような・・・
 
インターネットなどない時代だったので、文献を探し歴史を辿ってみた。
どんな世界にも、父や母と呼ばれる人がいる。ミュージカルの世界にもいるはずだと・・・
「ジョージ・M・コーハン」 「ブロードウェイミュージカルの父」と。
一度ブロードウエイに行ったときに、確か銅像があった気がする。
「よし、これでいこう」
彼の人生を描いた映画、「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」を早速見てみた。感想は・・・
「この作品の舞台化は大変だ。」
しかしその時すでに、「ジョージ ・M・コーハン」なる作品があった。
原本をとりよせ、知り合いに翻訳をお願いした。
とにかく公演に向けて準備に入った。予算を組み、キャスト、スタッフの人選をし、宣伝、広告、営業戦略・・・
 
やっと今日の本題に。
 
公演まで一年を切った時期に・・・同じ時期に対抗馬があらわれた。その企画書を見て、唖然とした。
「勝てない」
興業が成功するか否かは、残念だが「キャストの知名度」が大きく左右する。
私の企画作品も、ある程度知名度があったが、当時から生意気にも「実力重視」を優先させていた。
対抗馬の主演は・・・実力、知名度、くわえて 「品格」まで備わった方だったのだ。
頑張るだけ頑張ったが・・・結果は当然わかっていた。私の企画は先送りになった。
ボツになった企画は山ほどある。いつか再チャレンジしようと思っていると。
 
えっ 対抗馬の主演?  ・・・ Mたか子さんのお父上。 納得。
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ボツ企画

政権が交代して、毎日政治のニュースがながれる。ニュースのトップはどの局も仕分け作業風景だ。
机を四角く並べて、討論?質疑?が行われている。 どこかで見た風景なのだが・・・・・そうだ。
 
1957年生まれの私は、以前自分の生まれた年がどんな年だったか調べた事がある。
さだかではないが、中学生の夏休みの課題だったかもしれない。
その年のアメリカで公開された映画に、「12人の怒れる男」があった。その映画がたまたま上映されていた。
親には内緒で大阪に見に行った。
今日本で行われ始めた、「陪審員制度」の映画だった。主演は ヘンリー・フォンダ
12人の陪審員達が四角く並んだ机に座って、討論を交わす。まさに仕分け作業のあの風景だ。
 
1990年 三谷幸喜さん率いる 東京サンシャインボーイズが、「12人の優しい日本人達」を上演した。
興味津津見に行った。もう大爆笑!  参った!!!
「12人の怒れる~」も「12人の優しい~」も、俳優としては出演してみたい作品だと思う。
大抵は主演がいて作品を引っ張っていくのだが、この作品は12人すべてが重要で、個性が必要とされる。
こんな作品を「手掛けたい」と思った。その時頭にある考えが過った。
「関西人で上演したら・・・芸人さんを・・・」
早速 企画書を書いた。そして無謀にも、Y興業さんにコンタクトをとった。
後日連絡を受け打ち合わせに出向いた。そこで聞かされた事が・・・
 
「面白い企画で前向きで検討してきたのですが・・・」
「はい。何か問題でも?」
「実は・・・○○師匠が・・・ 『毎回おんなじことばっかりやれるかい!』と。」
「はぁ・・・」
「『芸人はな、おんなじ漫才のネタでもその日の客の顔みて、つかみやテンポを変えるんや。へたしたら、
落ちまで変えてでも笑わさなあかんのや。』」
加えて・・・
「『芸人はな、みんなライバルや。自分が一番目立ちたい。下手したら、潰し合いになるで。』」と。
「餅は餅屋」ということらしい。残念。
ただ、「面白い台本やね。」と。 少しすくわれた。
 
このとき「奇をてらった作品づくりをするのは、十年早い」と悟った。
でもどうしても諦めきれずに、後年違う企画をたちあげる事になる。
 
次の機会に。(N川さんとF山寛美さんの企画) 乞うご期待。
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経験談の良し悪し

早稲田大学野球部の練習風景がTVで流れていた。時代に逆行するかのような、非科学的な練習風景だった。
投手はとにかく走る。捕手は通常より短い距離での捕球練習。ミスすると、罰則の猛ダッシュ。
野手の身体に、バンバン球があたる。たぶん、身体中痣だらけだろう。
監督曰く。 
「若い時に苦しい思いをしておけば、困難に出合った時『あの時にくらべればまだまし』と思える。」
同じ事がどの世界でもいえる。
 
四季時代の先輩がよく口にしていたのは、「ウエスト特訓」 「ウエストサイド・ストーリ」作品のダンス特訓。
聞けば稽古場にトレーナーが待機。夏にもかかわらず汗が・・・出ないのではなく、乾いて塩が吹いてたそうだ。
私も同じ体験を、「コーラスライン」の特訓で味わった。
通常の稽古が終ると先輩方は解散。新人はその後稽古。地獄の始まりタイム。ただ私は地獄には感じられなかった。
何故かというと、男性キャストのすべての役のダンスを覚えられる時間だったからだ。
なんでも自分に都合のいい方にとっていた気がする。
ある日、指導していたダンスキャプテンが、「後50回踊ったら終わり。」と。私は思わず喜んだ。そして・・・
「早くやりましょう。え~と・・・やった 二時間で終わるじゃん。」 シ~ン・・・
その日は大学時代の友達と、確か・・・マージャンする予定だった。 不謹慎?
 
しかしこんな経験が役にたたないと感じた時があった。
 
与えられた歌の音域がだせない。台詞に実感がこもらない。あげくに、ケガをして身体が動かせない。
何度歌っても届かない音域。何度読み返しても言えないセリフ。
大先輩のなにげない一言がなかったら、私はもっと早くに辞めていたかもしれない。
「お前はいつもソロがあるなぁ。台詞もあるし。」だった。 はっとした。先輩曰く。
「広瀬の病名は、う~ん・・・ 贅沢病。」
ひょっとして嫌味だったのかもしれないが、なんでも自分に都合よく取る私には、「助言」に聞こえた。
 
年を取ったせいか、最近思い出話しが・・・
 
芝居を作る現場に早く戻ろうと思う。どんどん引き出しが失われていく。
自分の経験が覆されていく事が、いい作品につながる気がする。
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習うより・・・

年に4回会社の会議でのお仕事をお受けしている。
その会社は転職組の方が多く、いつも前職の話になる。 私の前職は・・・?
 
大学卒業後・・・
配膳会(アルバイト)・劇団四季・保健体育教師・宅配便セールスドライバー・イベント会社
スポーツクラブフロント係・劇場プロッデューサー・会社、劇団設立
おかげで沢山の人達と出会った。しかし、長続きしなかったというのが本当のところだ。
思い出話しばかりで・・・ 今回も・・・
 
「目から鱗」 私の場合は 「耳から鱗?」 いや「耳を疑う」が正解かもしれない。そんなお話し。
 
大学生の頃、日本バレエ協会からお仕事を頂いた。たぶん・・・「コッペリア」だったと思う。
バレエダンサーとしてではなく、ただ突っ立っているだけのエキストラとしてだ。
二つ返事で、「出たいです」と。日本を代表するあの・・・ 
森下洋子さんの舞台だったからだ。しかも、上野文化会館。
当時音楽関係の人達は、中野サンプラザホール 芝居関係は、帝国劇場 勿論 武道館や日生劇場も・・・
あぁ ちなみに大学の卒業式は、武道館だった。なんたって卒業生が、二万人もいたのだから。
 
話しが横に逸れた。
 
第一幕の終盤だった。コールド、第三、第二、第一ソリストと順番に踊っていく。そしていよいよ・・・
プリマ 森下さんが登場。 踊り始めて間もなく・・・ ?????
「何かがちがう。なんか変だ。」と身体が言っている。 そして・・・
「えぇ~ うそ~ そんな馬鹿なぁ!!!!!!!!」
目の前で踊っている森下さんの、トウシューズの音がしないのだ。いや、聞こえてこないのだ。
あの独特な「コツコツ」という音が。他のダンサーからは聞こえてくるのに・・・
無音ではなかったと思うが・・・ また、特注のシューズだとも思うが・・・
全神経が耳に集中した。
本当は真っすぐ前を向いていないといけないのだが、目ん玉だけは森下さんの足元を追う。
「ウォー」やっぱり音が聞こえてこない。身体中が熱くなった。
 
それ以降バレエのレッスンの時は、足音を意識するようになった。
 
私は元来、頭脳派?理論派ではないと思っている。どちらかと言えば、感覚派?肉体派の部類だ。
ある日バレエの先生に、突然脇の下の肉を抓られた。しかも両手で痣が残るほど。
「背中を使いなさい!」と。
またある時は、足の甲を思いっきり踏まれた。
「つま先を伸ばしなさい!」と。
お腹もお尻も引っ叩かれた。
 
話しを戻そう。
 
この世界ではよく、「習うより盗め!」と言われている。だが私は盗んだ意識がない。
自分の経験から私は 「習うより感じろ!」と言っている。
 
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伝える責任

落語界の重鎮 三遊亭円楽さんが亡くなられた。
東京にいた時に一度だけ寄席に出かけた事がある。たしか・・新宿「末広亭」だったと思う。
膝を痛めて針に通っていた治療院の近くだった気がする。
舞台には立てないし、レッスンにも通えないし、時間つぶしにブラリと入ってみた。
お客さんはわずか数人しかおらず・・・しかもヤジを飛ばしている。
常連の方だとは思うが、けっこう辛辣なヤジだった。が・・・ しかし・・・
「おもしろくねえなぁ~」「師匠の○○には遠いなぁ!」
そんなヤジにもめげず、若手の方は額に汗を流しながら、最後までがんばっていた。
そして一席が終わりかけた時、おじさんが席をたち大声で叫んだ。
「また来るからよ、稽古しときな!」って。
 
またまたいつものように話が跳ぶ。
 
これまでの人生で思いがけなく励まされた事がある。しかも何気に。
今年亡くなられた水泳界の重鎮 古橋広之進先生。
古橋先生の 「運動生理学」の講義を私は受講していた。
たしかバレエ公演の稽古で、途中退席をしなくてはならず、その事を講義前に教授室に伝えに行った。
講義の途中抜けが嫌いな先生なのだ。怖々とノックをし怒られるのを覚悟で伝えた。
「君はその道に進むのか?それが好きな事なのか?」と。
「はい・・・」ジロリと睨まれた。
「がんばりなさい最後まで。ただしレポートは今週中に」
 
当時の日大には錚々たる教授陣がいらっしゃった。
 
私の卒論の担当教授は・・・ 遠藤幸雄先生。東京オリンピックの体操ゴールドメダリストだ。
四年生の春、卒論のご挨拶に伺った。
「君は体操をするために日大に来たのに、一日も顔を出さなかったね。」
実は私は高校の先生に体操の推薦状を書いてもっていたのだ。それなのに入学して一日も・・・
卒論は担当してもらえないと思った。
「大学きてなにをしてたんだ!」
「○○がしたくて東京に来ました。」
「三年間続けているのか?単位は取れているのか?」
「はい」
「そうか。日大に来た事がその世界でも役にたつ日が来るといいね。がんばりなさい。」
 
私もたくさんの若い人達を指導してきたつもりだが、どちらかと言えば激励より罵倒だったかもしれない。
同じ世界に進もうとする人には、よりキツイ言い方をしてきたかもしれない。
どんな世界でも、「重鎮」と呼ばれる方は裾野が広い。
「人を育てる!」は「簡単な事ではない」と思うが、私もたくさんの方々に恩恵を受けたのだから、
「伝えていく責任」はあるような気がする。
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ダンサー

久しぶりにゆっくりと劇団てんのHPを見た。
公演記録をクリックすると、過去の公演チラシが映し出される。
懐かしく思い、旗揚げ公演から順に見ていった。
上演された作品はできるだけ記録映像を残しているが、全てアップするとなると・・・
公演の衣裳資料などを残すため、公演ごとに写真を掲載している。
数十枚ある作品もあれば、数枚しかないものもある。
順に見ていくと、宣伝のために作られたVTRも数点ある。
 
アトリエ公演のタップのシーンがでてきた。
「これは誰が振りつけた?」 最初はわからなかったが、よくよくみれば・・・私のようだ。
「スタンドイン」の冒頭のダンスシーンをみて思い出した。
私はほとんどの振り付けが数時間でおわるのだが、この作品の時は二日かかった。苦しんだ。
振付をする時は、できるだけ音楽やストーリーに忠実に、かつ 新鮮にと考えるので、前もって
考えていかず、その場で考え・・・いや感じたままに振付をしてきた。
 
話がまたまた飛ぶ(後で繋がるはずだ。たぶん・・・)
 
先日の日曜日に父の三回忌を終えた。 と言う事は・・・
忘れもしない。
恩師 山田卓先生も亡くなられて二年が過ぎた。
今でも耳に残る言葉が数々ある。
「オトコチャンやろ お前」 「役者やろ お前」 「ダンシングや わかるか?」
「ダンスがうまくなるのはそんな大変やない。隣で踊ってる奴の二倍、三倍踊るか
 誰も持ってないものを手にするかだけや」・・・等々。
 
恩師はお寿司が好物だった。
当時参宮橋(小田急線で新宿からふた駅)に稽古場があった。事務所は歩いて百歩もかからない。
事務所の一階は店舗が入っていた。果物屋さん、クリーニング屋さん・・・そして お寿司屋さん。
ある稽古の夕食休憩時に、「ご飯食べに行こ」と。 もちろんお寿司屋さん。
やつぎばやに注文され、一貫一貫をおいしそうに口に入れられ・・・そして ダメだしが始まった。
「・・・・・」「・・・・・・・」「・・・・・・・・・」 !!!!!!!!!
すべてが芝居のダメだしだった。ダンスに関しては一切無し。 恐る恐る聞いてみた。
「あのぉ・・・僕のダンスは・・・」
「ダンス? 百年早い! ・・・けどな、まぁお前は他の人にないものを持ち合わせてるから、えぇんちゃうか。」???
「それって・・・」
「ん・・・あぁ 童顔と体操。」
「はぁ? あぁ・?・?・?・・・」
ダンスとなんの関係もなかったが、でも 嬉しかった。
 
てんのダンスシーンをみていて思った。(話が元に戻ったでしょ)
私は俳優に振付をしてきた。俳優が踊り、歌い、演技する。これは間違っていないと思う。
卓先生の口癖。
「一流のダンサーに振りつけしたいわ。なかなかおらんけどな。」
先生の言うところの「一流のダンサー」は、「芝居心のある人」を意味する。
私は劇団員を育ててきて、やっと理解できた。
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記憶・・・

テレビを見ていると映画のCMが目に入ってきた。 「アトム」そう「鉄腕アトム」だ。
幼いころのヒーローと言えば・・・
「鉄腕アトム」「月光仮面」「七色仮面」「隠密剣士」「鉄人28号」「少年ジェツト」・・・
まだまだいっぱい思い出せる。
当時「鉄腕アトム」は近未来の物語として憧れがあった。
 
演劇でも、映画でも、テレビでも、何十年も前の作品のリメイクが多い。
良質の作品を後世に伝える事は大切な事だとは思うのだが、自分の記憶や時代を大切に取っておきたいとも思う。
勿論その反対もある。 「白い巨塔」だ。山崎豊子さん原作の。
数年前に唐沢さん主演で放映された。それより何十年前だろう。私は田宮二郎さん主演のほうを観た。
曾我廼家明蝶さんや、新劇俳優の中村伸郎さんや、太地喜和子さんなど、錚々たるメンバーだった。
しかし・・・それと同時期に、深夜モノクロの映画が放映されていた。
「白い巨塔」だ。田宮二郎さんだったが私は衝撃をうけた。
同じ田宮さんなのに、生き生きとしていた。テレビとは何か違うのだ。
 
同じように、映画館でやはり山崎豊子さんの「華麗なる一族」を観た。
こちらは仲代達也さん主演。父親役は名優 佐分利信さんだった。
若い人はきっと木村拓哉さんのテレビドラマをみたと思う。しかし・・・
何十年前か思い出せないが、私は加山雄三さんのテレビシリーズも見ている。
 
さて、何が言いたかったかと言うと、当たり前の事なのだが、映画は上演時間が二時間ぐらいだ。
その間に起承転結を進めていかなくてはいけない。沢山のカットから選んで仕上げてゆく。
またテレビは、きめられた放映回数、時間があり、それを考え撮影、編集されてゆく。
 
同じ作家の良質な作品でも、私は一度に味わいたいタイプのようで、「白い巨塔」も「華麗なる一族」も
映画での感動が印象に残っている。
では 舞台は?
 
今時間があると舞台作りのあり方を考えてしまう。
時間的な配分からすれば映画だが、撮り終えたカットから選ぶ事は出来ない。
また、テレビ、映画の撮影は時間経過など順不同で進めていく。ラストシーンを先に撮ったりとか。
 
舞台は生物だ。そこにやりがいや魅力がある。しかし失敗もつきもので、完成度は低いかもしれない。
そのため稽古に大半の時間を費やし、何度も確認する作業をする。
新しい方法論は簡単に見つかるわけではないが、劇団の次回作までにはなんらかの考えをまとめておきたい。
 
冒頭の「鉄腕アトム」だが・・・
どんな内容かは知らないが、アトムは単にアニメとしてだけではなく、家族の問題や、政治の問題や、
人間の心の在り方をモチーフにしてきたと感じている。ロボットが人間の心を持つ。
「正義の味方」 この言葉の響きが私は好きだ。
今の子供たちにもきっと伝わると思う。そして、記憶のどこかに残ってほしいと・・・
 
なかなか子供のころから舞台を見に行く習慣はない。私も幼い頃母に連れられて行ったのは映画だった。
ディズニー映画が主だった。初めて舞台を見たのは・・・ 思い出せない。
親が子供の頃に見た良質の舞台作品を、その子供たちが見るためには、長く上演し続けなければならない。
こんな事が可能だろうか。無理かもしれないが、考えてみたいと思う。
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感性?考え方?

新政権がスタートした。劇的に日本が変化して行くかどうかはわからないが、多少期待はしたい。
舞台や芝居作りも、新たな試みをする時がきているのかもしれない。
 
私の周りでも、ここ三年で色々な変化が生じた。
① 某企業との出会い
② 父とのお別れ
③ 社長業
 
① 某企業の社員の方が、三年前の初夏に突然稽古場を訪ねて来られた。振り付けの依頼だった。
  こころよくお受けして、お仕事をさせて頂いた。がしかし・・・
  私も色々な方々とお会いし仕事をしてきたが、こんなに刺激を受けた経験はない。
  以前オリエンタル劇場で撮影した事をブログに掲載した。その会社だ。
  まさに 「会社、企業は "人"」を、教わった。
  以来三年 今も刺激を受けつつ、お仕事をさせて頂いている。
  劇団員にとっても、映像という生の舞台とは違う形なので、貴重な経験になっている。
  無論私も。
 
② 来月父の三回忌をむかえる。石川県津幡町から夢を抱いて大阪に。サラリーマンとして生き
  八十年の人生を全うした。
  二年経って、ようやく父の遺品を整理し始めた。手に取るものすべてに思い出があり、なかなか進まない。
  進まない理由は・・・ 子供に対する愛情を示す書き物を目にしてしまったからだ。
  私達姉弟は、多少過保護に育ったようだ。親の望みとはうらはらに、姉弟して舞台の道に進んだ。
  五十九歳という若さで先立った母の私に対する口癖。「あんたの育て方 まちごうたわ。」だった
  
③ 八月末をもって、オリエンタル劇場からしりぞいた。劇場運営は、私には荷が重すぎたようだ。
  ある日事務所で、「社長、社長・・・」と。目の前に居た女性に、「広瀬さん お呼びですよ。」と。
  私は 「広瀬さん」と誰からも普通に呼ばれたい。
  若い人達を指導したり、演出や振り付けをしていると 「先生」と呼ばれる事がままある。
  たった一年だが、保健体育の非常勤講師をしていた事がある。学校だから当然「先生」だ。
  小さな会社だが、確かに「社長」でもある。が・・・ 勘弁してほしい。
  劇団の代表、演出家、社長業、夫、親、・・・共通は・・・「責任」かもしれない。
 
時代がどんどん進んで行く。何かにチャレンジしたい。舞台そのものを根底から考え直してみたい。
九時間に及ぶ大作もある。古典の新バージョンも上演された。そんな中で・・・さて・・・
 
劇団てんは人の人生を結構描いてきた。ただ、たった二時間の間に全てを描く事は元々無理がある。
舞台は毎回同じ内容を繰り返し上演する。ここから考え直してみることにしょう。
考えがまとまったら、またご報告します。
 
毎回、毎回同じ事を書いてしまうが、芝居、舞台作りには「人生の経験」が必要。
特に想像力に乏しい私には、頭で考えるより、少々痛くても、傷ついても、身体に感じた事を具体化し
舞台に活かしていきたい。
私のしている仕事は舞台関係。ある人が、「クリエーターですね。」と・・・ 笑ってしまった。
「クリエーター」 なんとも私には似合わない響きだ。 またまた 勘弁して。
  
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拘りを捨てて

俳優を育てる立場の人達にとって、最低限知っておかなければならない人物がいる。
まぁ、絶対知っていなければいけないわけでもないが・・・・・
 
スタニスラフスキーとブレヒト。
近代の演劇史には必ず登場する。興味のある人は調べてみてはいかがかな。
私なりの解釈になるが、簡単にいえば・・・・・
 
スタニスラフスキー 自らの肉体を役に提供し演ずる。
ブレヒト      俳優が役になりきり演ずる。
 
私は30年以上前に、ゼン・ヒラノさんのワークショプを受けた経験がある。
彼の経歴も興味のある方は調べてみたらいいと思う。
 
どんな人が何を信じて芝居をどう教えていても、それはそれでいいと思う。
なぜかと言えば、それぞれに正しいところがあるからだ。
 
さてなにが伝えたいかと言うと、私は舞台俳優を志す人と仕事がしたい。当たり前ですが。
舞台を志す人たちに求めていることは、技術と個性。
ダンスや歌は何といってもレッスンに懸ける時間の積み重ねが左右する。しかし・・・・・
芝居がどうすれば上手くなれるかと言えば、これだという方法論がない。
沢山の本を読む、芝居を観る、ワークショップを受ける、発声の訓練をする・・・等々。
スタニスラフスキーもブレヒトもゼン・ヒラノも共通している事がある。
「肉体と感情の解放」
解り易くいえば、自意識をいかにすてるかだ。自意識を捨てる? え~と・・・
恥ずかしいと思う事をぬぐい去る かな?
 
今 いろんな人達が演劇のワークショップを開催している。私もそのひとりだが・・・
ただ以前からなんとなく違和感があった。なにかが違う 他の人達と・・・
ワークショップは演劇界の底辺を広げるものだと思っている。
だから、素人の方や色々な職業のかたがたが対象になっている。
勿論 プロを目指す人達にも行う。他の方々もここまでは同じなのだが・・・ところが・・・
すべての方々とは言わないが、話を聞いてみると、ほとんどの方々が内容を変えているのだ。
一般用とプロ用に。 これにはびっくりした。私には出来ない。
 
私のワークショップの内容は、対象が子供でも、一般の方でも、お年寄りでも、プロを目指す人でも変わらない。
身体を温めるウオーミングアップから始まって、発声をし現実に上演された作品の一部を・・・・・
無論それぞれにかける時間は異なるし、ウェートも違う。しかし内容は同じ。ではなにが違うかっていうと・・・
対象になる人達に対する接し方が、天使と悪魔?鬼?ぐらい違う。・・・らしい・・・
 
以前にも書いたが、自分が経験したことが下地?トラウマになっているようだ。
バレエの稽古場を探し20か所ぐらい見学してまわった。新宿歌舞伎町コマ劇場の屋上にあったスタジオに。
私は見学していて突然先生に切れられた。
「あなた見学にきたんでしょう。!!もっと真剣にみなさい!!!!!!」と。
その時に感じた。
「ここでレッスンすれば上手くなれるかもしれない。」と
後日談。どうやら始まる前に私が余計?な事を言ったからだったらしい。
「舞台でミュージカルがやりたいです。」と。
またまた後日談。
「バレエのスタジオにくる人はみんなバレエをしたいから。本心は美容的にとか、ダンスの基礎はバレエだから、
 とかいろいろあるけど、みんな真剣に見てほしいから本心は言わないのよ。私も余計な事を考えたくないから、
 私のスタジオに通う人は、みんなプロのバレエダンサーになりたいと思ってると思って接してるのよ。」と。
少し?自慢 こんな経緯があったにも関わらず一年後、午前中のプロクラスへの参加のお許しがでた。
嬉しかったが・・・レッスン内容は多少高度になるのだが、意識レベルが違う。怖いぐらいに。
当たり前か。皆さんプロなんだから。
 
話をもとにもどそう。
 
舞台人に必要な要素は別の職業でも役に立つ。あるいは必要とされている。
と言うことは反対もそうで、普段のなにげない事でも、俳優には役にたつといえる。
これを 経験と一言でかたづけるか、意識しているかどうかで成長の度合が変わる。
 
今日はまとまりのないブログになってしまった。
 
何が言いたかったかと言えば・・・
長年偉そうに 「自意識を捨てろ!!!」と喚き散らしてきた私が、自分の自意識を捨て切れない事に
苛立ちがある。間もなく劇団の落ち着き場所が決まり、いよいよ腰を落ち着けてスタートする。
私も過去の事に拘らず、未来を見据えて進んでいかなくてはと、思っている。できるかなぁ~。
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何年振りだろう

何年振りだろう。新宿の歌舞伎町を歩いた。
34年前に上京して、ミュージカルを目指すために最初に通った稽古場が今もある、
クラシックバレエの稽古場。
新宿コマ劇場の屋上に細長いスタジオがあった。
楽屋口から入り、床山さんの部屋をすりぬけてエレベーターで屋上に上がる。
外の通路を通ってスタジオに入るのだが・・・
小さな扉を開けると、照明さんのピンルームがある。
 
思い出も多すぎて・・・・
 
ある時、稽古場の外から「ガルルルル~」とうなり声がした。
すると入り口の方から、なんと銃を持った人が二人入ってきて稽古場を横切り、
そのうなり声のする方に出て行ったのだ。
先生が一言、「は~い、皆さん道をあけてぇ~」
今出て行った二人がジャラジャラと音をたてて入ってきた。
なんと、なんとトラの子供が・・・・
トラの子供が屋上にいたのだ。また先生が、
「いってらっしゃい、頑張ってね」って。トラにだよトラに。
新宿コマ劇場で、堺正章さんと由美かおるさんのマジックショーが行われていた。
その出演者(?)なのだ。
毎日19時半、レッスンは中断する。
恩恵にも預かった、ただ券をもらって「マジックショー」を見せてもらった。
大きな象が一瞬に消えたのだ。ところが・・・
舞台の下、奈落から「パオー」と・・・
訓練されていたのにもかかわらずその日は「パオー」って。
後日スタッフに聞くと、奈落をネズミが走り、象が怖がったらしい。
可愛そうな象さん。
 
ふぅ、今日も少し長くなる。あともう少しだけ・・・
 
 
東京六大学野球のシーズンには、必ず優勝校が歌舞伎町で勝どきをあげる。
そして、校歌の大合唱。
コマ劇場前に噴水があり、そこでひと盛り上がり。
最後はおまわりさんの笛の音がこだまする。
 
レッスン帰りに、いつも一つだけ嫌な事がある。
当時は「ディスコ」の大ブームで、コマ劇場の周りにも数多くのディスコがあった。
楽屋口を出ると数十メートルもいかないうちに、必ず女の子に声をかけられる。
「ねぇねぇ、踊りに行かない?」って。
「今踊ってきたとこだよ。(バレエだけど)」と心で叫んでいた。
要は誰でもいいのである。
男性同伴だと、女の子は半額?だったらしい。
 
ネオン街にはいろんな事件もあった。いろんな人生もおっこちてた。
 
また思い出したら、つづってみる事にする。
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運命?

中学二年生の時に学校でミュージカル映画を観た。
イギリスの作品で、「オリバー」だった。
主演はマークレスターで今話題の人だ。マイケルジャクソンの子供は自分の子供だと打ち明けた人だ。
 
彼はその後 「小さな恋のメロディー」に主演した。
これも大ヒット作品で、ビージーズの曲は誰もが知っている。
そして 「王子と乞食」の映画に出て、その後はよくわからないが大人向きの映画に何本か出て、
俳優業を引退した。
 
私は高校時代に 「カバーガール」と言うジーンケリーの映画を観てこの世界に進む決意をした。
 
なにが伝えたいかと言うと・・・・・
 
劇団四季に入って、まさか中学時代に観た作品の主演をつとめるとは思ってもいなかった。
加えて、私の師である 山田卓先生との出会い。
山田先生の振り付けは、まさに ジーンケリーが踊っていた振りなのだ。
四十年も前に、当時のブロードウェイのダンスを日本に広めた先生だ。
 
自分が観た映画が繋がった。
ミュージカルは楽しそうだと感じた作品に出られる事になり、あの人のように踊りたいと思ったダンスに出会い、
今考えると 運命をかんじる。
 
また少し昔の思い出深い映画をみてみようかな。 
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数々の思い出

先週かつて自分が舞台で演じた作品が上演された。
劇団四季 「人間になりたがった猫」
28年前のちょうど夏 その当時は同じ作品が北海道と鹿児島からスタートした。
北海道班の主演は 市村正親さん。私は市村さんと同じ役で鹿児島からスタートを切った。
 
この作品には思い出が多い。と言うか、事件が・・・・
① 冷たい視線事件 ② 僕には無理です事件 ③ 40点事件 ④ 4回通し稽古事件   
⑤ 声がでない事件 ⑥ 反響板激突事件 等など・・・あっ・・・・・
一番思い出がある、 僕は主役です事件 が・・・・・。さてどれからいきますかねぇ。
 
まずは少し説明を。
 
研究生の2年目の秋、日比谷 日生劇場で初舞台を踏んだ。作品は「コーラスライン」
その年末までツアーに出るのだが、初舞台の緊張と埃だらけの舞台に負けて、途中ぜんそくに
なり、あえなく降板。
年末に悲しい出来事が重なる。
越路吹雪さんが亡くなる。その一週間後偉大な舞台装置家 金森馨さんが亡くなる。悲しみはつづく・・・
年が明けて間もなく、劇団四季を支えてきた 影万里江さんが亡くなる。なんと言う事だ。
当時は劇団員総出でチケットを販売していた。影班があり、私もその末端の一人だったため悲しみは大きく・・・
 
そんな出来事があった年に、私と山口祐一郎はデビューした。
私は 「オリバー」で、 彼は 「ジーザス・クライスト・スーパースター」
当時の対談記事を読み返してみると、なんと生意気な・・・。お互いにコーラスラインのオーディションで
入った同期だ。
 
さて話は少し逸れてしまうが、あるいはどこかで書いたかもしれないが、私は演出する時に絶対の信条がある。
私は現役の時に舞台上で「冷たい拍手」を浴びた経験がある。人に言わせれば 「そんなことなかったよ。」と
言ってもらえるのだが、私は確かに自分の身体に感じた。私は私と舞台の仕事をする人達には同じ経験を絶対に
させない。そのためには、嫌われても、「怒鳴る」「罵る」「喚く」。これは言い訳? 信条。
 
 今日のブログは長いぞ。支離滅裂。
 
「冷たい拍手」を浴びた次の作品が、「人間になりたがった猫」である。ふぅ~。
「オリバー」がツアーに出る日に劇団員が日生劇場に集められた。ジーザスの舞台稽古の総見と、夏の作品の
キャスト発表だ。そこで第一の事件が起こった。  やっと話が繋がった。
 
日生名作 夏作品 「人間になりたがった猫」
A班 ライオネル 市村正親  パチパチパチ
B班 ライオネル 広瀬正勝  ????????????????? 一斉に視線が・・・・
「なんでだ?」「出来るのか?」「またお前かよ!」
実は私はこの作品を見たことも聞いたこともなく、ライオネル役がどんなに大変な役かまったく知識がなかったのである。
私は 「はい。」としか言いようがなく、またその「はい。」の返事がやたらおおきな声だったようで、のちに反感を・・・
このときに冷たい視線を感じたのである。なんとも言えない視線。
   
ただそんな事は気にしていられない。目の前の作品に全力投球だ。「オリバー」のツアーに出発。
「オリバー」の旅公演の途中東京に戻れる日があり、私は劇団に行って「人間になりたがった」のVTRを見ることにした。
そこで 第二の事件が起こった。
VTRを見始めてすぐに私はわが目を・・・・・ なんとそこには・・・
緞帳があがり歌を歌い、長い一人セリフで幕があく。そのうえ子供たちに話しかけ、ぐいぐい引っ張っていくライオネルがいた。
この役を私が・・・その時となりから声がした。演出家の先生。
「何してんだ。」
「次回作の勉強です。」
「どうだ?」
「はい。僕には無理です。」素直に答えた。市村さんだからこそ子供達もついてきてるし・・・・・
このあととても叱られた。
せっかく与えて頂いたチャンスなのに、いや せっかく与えて頂いた役だからこそ私では駄目だと思った。未熟すぎると。
 
まだまだ続きはあるのだが、また次の機会にお伝えします。
 
何年たっても忘れられない事があります。過去にこだわりを持ちすぎてもいけませんが、私が「芝居が好き」と言えるのは
この作品に携われたからです。

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時代を背負う?

先日神戸で 「女の一生」が新派名作劇場として上演された。
この作品は文学座の故杉村春子さんの代表作である。
杉村春子さんはこの世界に生きている人達なら誰でも知っているはずだが・・・
「女の一生」は千回近く上演されている。
昭和二十年四月初演 まさに東京大空襲のさなかだ。予定されていた劇場が
焼けてしまったため映画館で上演された。
文学座の代表作が新派の方々で・・・新派は昨年が創設百二十年だったときく。
先代水谷八重子さんの事は、まだ幼かった私でも記憶に残る名女優さんだった。
 
この公演には、随分なご高齢の方々がお越しになった。いろんな人生を背負ってこられた方々だ。
そんなお客様をみていると、ずっしりと芝居の重みや責任を感じる。
 
さて芝居バトルが終了した。いろんな経験もした。ただ、随分と私も年を重ねたなぁと感じた。
二十代のころ、血気盛んな演劇人が集まると、最初は和やかに話をし、お互いに
認めあってはいるのだが、徐々にお酒もはいってヒートアップし、最後は罵り合い
になる。挙句の果ては 「二度とお前らとはあわねぇよ。」 と言うのがお決まりのパターンだった。
芝居と言うのは時代背景に大きく左右され、若者のエネルギーの発散の場となっていたようだ。
現在はみんな仲がよく、優しい。
 
関西の演劇界が停滞していると耳にする度、何かやれる事はないのかと思ってしまう。
 
劇団てんが、「後世に名を残した」とか、「一世を風靡した」とか、そう言われたいと考えた事もあった。
が・・・後からついて来る事に左右されてはいけない。  
 
「芝居バトル」 「女の一生」 何のつながりもないような感じだが、私に大きな刺激を与えてくれた気がする。
 
「芝居がすき。舞台がすき。」 続ける事で何かが見つかる気がする。
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東京サンシャインボーイズ

日本の劇団の老舗と言えば、民藝、俳優座、文学座。
先人の方々は大変な苦労をされてきたと聞く。サラリーマンをしながらとか
映画のお仕事をしながらとか・・・・・時代はTVへと。
 
そんななか小劇場ブームがやってくる。
今は下北沢の本多劇場が建っているが、劇場が建つ前はその空き地にテントが
はられ、そこでお芝居が上演されていた。もう25年以上前の話だが。
 
しかし次々と新しい世代の演劇が台頭してきた。
第三舞台。小劇団ブーム? 凄まじい勢いだった。
かたや、東京キッドブラザーズや夢の遊民社など等、演劇界には勢いがあった。
 
私は次世代の劇団を探し出す事にした。
そこで出あったのが、東京サンシャインボーイズだった。
下北沢で彼らの芝居を腹を抱えながらみた。面白かった。終演後楽屋を訪ねた。
劇団の代表の方が出てこられた。 三谷幸喜さんだった。
なんとかお願いして、神戸公演を実現できた。その後の劇団の凄い事。
しかし・・・
 
突然の休団宣言。しかも30年。30年後の演目は、「リア玉」。リア王ではなく「リア玉」
 
今年3月、東京新宿にある「シアタートップス」と言う劇場が閉館した。
なんとそこに東京サンシャインボーイズのメンバーが集まって、15年ぶりに公演をした。
本当は見たくてたまらなかったのだが、チケットが手にはいらない。残念。
しかし気を取り直して・・・ あと15年気長に待つ事にした。
 
いろんな形の劇団がある。集団を長く続けることの苦労は大変な事なのだが
楽しみもいっぱい待っている。
 
さて7月の芝居だが・・・
弾けるをテーマに稽古が進んでいる。
お時間のある方。ぜひぜひ見に来てください。
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