広瀬正勝の最近のブログ記事

新体操

新体操のテレビドラマが流行っている。

高校だったか大学だったか忘れたが、新体操の授業があった。

歴史から学んだ気がする。たしか・・・・・

スウェーデン体操、デンマーク体操、ドイツ体操だったと思う。

それぞれ背景があって、生理的理論や農民のなんちゃらや、リズム運動~を元に、各国で

独自に発展していったと・・・・・(間違ってたらすいません。)

 

まぁ、日本のラジオ体操みたいなものだった。

全員で腕の角度、足の出す位置などを合わせて動く。

NHKか教育TVで時々やっている(イスなどを使って)体操ににている。

正直あまり楽しいものではなかった。

たぶん・・・最初のころは・・・徒手体操と呼んでいたと思う。

 

ある日教育実習生がやってきた。科目は保健体育で専攻は新体操。

中学には新体操部などないので、体操部の練習に参加。

顧問の先生が、「今日は新体操を教えてもらえ。」と。

体育館の端に一列に並ばされて、全員で一斉に15回ぐらいバク転をやらされた。

するといきなり・・・

「どうして揃わないんだ!同じテンポで横を意識して美しく!!!」

全員顔を見合わせて・・・ポカ~ン。

体操は個人競技である。それぞれのクセがあり、形がある。

跳躍力も違えば、回転のスピードも違う。それを揃えろだと。 なんで?

しかし更に練習はつづく。その日は新体操を教わることになってはいたが、キャプテンが

さすがに切れた。いや、抗議した。

「バク転ばかりやっていると手首を痛めます。」

「揃うまでやる!」

「体操競技のバク転は新体操と違い、宙返りにいくための準備なんです。」

(こころの中で、「そうだそうだ!サーカスじゃあないんだ」)

さすがにその抗議は説得力があった。

教育実習生の先生は、一人で自分の練習をし始めた。

もちろん後で仲良くなったのだが、美しいテンポのあるバク転は、体操競技でも必要で

それが高得点につながるとお考えだったらしい。 なるほど。

 

次の年、後輩の教育実習生がまたまたこられた。やはり保健体育。

しかし今度は・・・トランポリンの選手。

もちろんトランポリン部などなかったので・・・・来た! そう、体操部に。

そして顧問の先生がまたまた、「今日はトランポリンを教われ。」と。

 

この話は次回に。私の教育実習の話も。

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

エスハチ

先日何十年振りに、懐かしい車とすれ違った。

ホンダ・S800だ。通称 エスハチ。

1960~70年ごろ、ホンダが発売したスポーツカーだ。

 

中学の体操部仲間に、この車に魅入られた友人がいる。

彼が大学時代にエスハチを組み立て、東京まで自慢しにくることになった。

名神、東名をぶっ飛ばして颯爽とやってくる・・・はずだったのだが・・・

朝方電話がかかってきた。当時は携帯電話などない時代なので、公衆電話からだったのだが

やけに10円玉がはやく落ちていく音がする。

「今どこや?」

「静岡過ぎたとこ」

「遅いなぁ」

「事故った」

「えっ!大丈夫か?怪我してないのか?」

「わやくちゃでボロボロや」

「どこ怪我してん?」

「車が・・・かわいそうに・・・死んどるよ」

 

東名高速の出口まで迎えにいった。体は大丈夫そうなのだが、なぜか友人は笑ってた。

「居眠り運転のトラックに追突された。原子炉の蓋積んでたトラックや。追突されて前のトラックの

バンパーの下に突っ込んだ。あかん、死ぬ!・・・ガハハハハハ」

なぜか彼は笑いだした。?????

「あんな、ははは・・・ほんま笑うで。突っ込んだとき、フロントガラスが割れて死ぬと思った瞬間

ポコって音がしてな、フロントガラスがそっくり外れたんや。建てつけが悪かったんやろな。」

 

その夜、私の下宿に来て酒を飲んでた時に・・・・・彼はずっと悔んでいた。

「何がわるかったんやろなぁ?三年やで。三年かけて完璧に仕上げたのに、なんで外れたんやろ。

おかしいなぁ。接着剤が乾いてなかったんかな?斑があったんかな?」

フロントガラスが外れたおかげで、命が助かったというのに、彼は車の不備に不満があるらしい。

 

後日連絡があった。

ぐちゃぐちゃになった車体が運ばれてきたそうだ。すると・・・

「部品たりるかなぁ?もう一回組み立ててみるわ。」

 

彼は今中国で仕事をしている。自転車に乗って通勤しているそうだ。

| コメント(0) | トラックバック(0)

オグリキャップ

新作の舞台作品を考えるとき、題材を何にするのかでいつも悩んでいる。

歴史上の人物、特に海外の王室に纏わるエピソードを探し、作品として使用される事が多い。

しかし、どれも何度か上演されていて、新作と呼ぶには???

そんな時はきまって自分が何に感動したかを、思い出してみることにしている。

ある日、いつもと同じように思い出していたら・・・・・

不謹慎だが、それはある年末の競馬中継だった。

1990年 12月23日 第35回 有馬記念

「奇跡の復活」 「感動のラストラン」と呼ばれた、あの馬。

オグリキャップのラストランだ。

 

1990年 第二次競馬ブーム 

バブルに加えて、武豊騎手誕生で女性ファンが増えた。

第一次ブームは、まだ大学生だった。あの歌にもなった、ハイセイコーの時代だ。

余談だが、府中の東京競馬場にはお世話になった。

 

オグリキャップに惹かれた理由は、人生?馬生が波乱に満ちていたからだ。

「地方出身の三流血統馬が、中央のエリート馬をなで斬りにし、トラブルや人が決めた

過酷なローテーションの中で、数々の名勝負を演じ、二度の挫折を克服した。」

最後のレース翌日に書かれた、スポーツ紙の評だ。

まるで何かの宣伝文句のようだ。 名文。

岐阜県の地方競馬 笠松競馬場でうまれ、中央競馬界に。

何度かの怪我を乗り越え、馬主の事件にも巻き込まれ、それでもひたすら走り続けた。

「芦毛の怪物」 強すぎて憎まれたこともあった。勝てないとそれこそ・・・罵声が飛ぶ。

何度か競馬場で彼をみたが、「本当にこれからレースをするのか?」と言うほどノンビリしてて、

カワイイのだ。負けても憎めないのだ。

またまた余談だが・・・ 馬にもスポーツ心臓があることを知った。

引退前は負けが重なり、最終レースで優勝した時に中継アナウンサーが、

「オグリのスポーツ心臓は生きていた!」と叫んだのだ。

多少のハンデを持って生れてきたらしい。そのためかなりの練習、調教がされたと聞く。

 

引退式は、京都、笠松、東競馬場と、史上初の三会場で行われた。

岐阜県笠松町の人口は、当時 2万3000人。 それを上回る、2万5000人が集まった。

しかも馬場に入場できなかった観客が1万人以上いて、最終的には、約4万人と発表された。

すごいことだ。

 

後年、北海道を題材にした作品があり、北海道ツアーがあった時、私は一人で彼に会いにいった。

引退後、北海道新冠郡 優駿スタリオンステーションで放牧されていた。

いつも通りの優しい顔をしていた。

 

馬を題材に作品を作り上げるには無理があるかもしれない。

しかし、1985年生まれ 25年の間にはいろんな出来事があり、ドラマがある。

映画では描く事ができるかもしれないが、私は自分の記憶に留めておきたい気がする。

| コメント(0) | トラックバック(0)

古傷

梅雨 鬱陶しい天気がつづく。

この時期になると嫌なことを思い出す。 古傷だ。

 

高校二年生の初夏、インターハイ予選をまじかにひかえていた。

体操競技は、床、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒の順で競技が進む。

準備運動が終わると、先輩方が競技順に練習に入る。つまり床から。

後輩の私たちは先輩の後を追うように練習に入る。だから鉄棒から。

どんな大会でも、予選の点数の高いチーム、または個人が床運動から始まる。

一説には、集中力が一番継続し易い順だそうだ。

 

ある日、いつもどうり鉄棒から練習が始まった。

三回目ぐらいだったろうか、私の順番がきて鉄棒に飛びついた。

大車輪から次の技に移行し始めた時、右肩から違和感を感じた。

かまわず続けていたら・・・・・

「グニュ」と鈍い音がした。そして激痛が・・・そして鉄棒から飛んでいってしまった。

脱臼!!!だ。 しかも間の悪いことに、エバーマットに落ちた時にまたまた・・・「グニュ」と。

外れた肩がまた入ったのだ。  ヒェ~!!!!!

体操競技では、アキレス腱を切ると一流とされている。

切れた腱が太くなり、より強くなると言われている。本当かどうかは?だが、オリンピック選手の

ほとんどが経験している。

 

舞台では膝を痛めた経験がある。靭帯損傷だ。これも最悪だった。

一幕終わりに痛めたのだが、当然二幕がある。

ゴムチューブを膝に巻いて出た。これが悪かったらしい。

腫れてくるは血行を止めてしまうは・・・・・もう大変だった。

 

昔のスポーツ選手は、まず身体を冷やさないことが絶対で、水分補給もだめだった。

プロ野球の投手は、登板し終わっても肩を温めていた。

確か脱臼した時も、冷やした記憶がない。病院での治療も、鎮痛剤の注射だった気がする。

 

早く夏がきてもらいたい。

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

進め、進め!

朝刊を読んでいると、ある記事が目にとまった。宮崎県の口蹄疫に関する記事だ。

口蹄疫に負けず「進め、進め!」

何処かで耳にしたことがある言葉だ。記事を読んでいく間に思い出した。

 

以前書いたが、九州公演の時、反響板に激突したり、声が突然でなくなったり、

舞台装置が本番中に壊れたり、アクシデントが重なっていた。

宮崎公演終了後、居酒屋さんに先輩と食事に出かけた。すると・・・突然

「今日観ましたよ。」 お店の方から声をかけられた。お店のご主人だった。

「ミュージカルを初めて観ました。楽しいですね。でも大変ですね。」と。

まだまだ未熟だった私が、思わず愚痴をこぼしてしまった。

すると御主人が、宮崎県の話しをし始めた。

「知ってます?宮崎は開拓の地なんですよ。大正時代に武者小路実篤さんが仲間と一緒に

来られて、日向の山中に住んでいたんです。畑を耕し、若い人たちを励まし、村人と交流を

深め、日本初の文庫本を作ったんですよ。」 定かではないが、こんな内容だったと思う。

失敗つづきの私にかけて頂いた言葉がある。

「進め、進め ですよ。」

新聞記事によると、開村3年目に母屋が焼けたそうだ。その時に落胆する若い仲間に・・・

「家が焼けた!。それもいいだろう。新しい家がたつ。進め、進め。」

「しなければならないことを、片っぱしからしろ、忠実に。進め、進め!」

あの時ご主人は、進め、進めを私に連呼して下さった。

きっとご主人もつらい時期がおありだったのだろう。

 

サッカー日本代表も、今まさに 進め、進め!だ。

| コメント(0) | トラックバック(0)

平成3~5年

今世間はサッカーワールドカップの話題でもちきり。

日本のプロサッカーリーグ、Jリーグが発足した時のことはよく覚えている。

1993年 平成5年だ。なぜかと言うと・・・

二年前の平成3年から私にとって忘れられない事が続いていたからだ。

 

平成3年に末娘が生まれたのだが、顔をみないままにおふくろが他界。

その年の12月、ロンドンに研修に出かけた。

そして翌年には、ブロードウェイにも行かせてもらった。

その時に訪ねた思い出深い場所が、ニューヨークの貿易センタービルだった。

そのビルが平成5年5月に爆破された。

 

平成5年は、皇太子、雅子さまがご結婚された年でもあり、日本中が幸せな気分に

浸っていた。また、初の(?)連立内閣が誕生した。確か・・細川内閣。

 

私にとって、平成3年~5年は・・・・・

ちょうどこの時期に、一本の印象深い作品に出会っている。

「迷子の天使たち」 藤本義一先生の短編小説の舞台化だ。

劇場の5周年記念公演 

演じる側から制作する立場になって、ゼロからの企画の立ち上げで、ずいぶん苦労をした。

稽古開始から二日目に、出演者が入院。舞台稽古初日に主役が岡山まで乗り越し。

休演日に某俳優が骨折等など。

いろんな苦労があったが、舞台の魅力にとりつかれたのも事実だ。

作品を作り上げる。毎日芝居が進化してゆく。作り手の楽しさを痛感した。

オリジナル作品の苦労と喜びを体験すると、他の作品での苦労は、なんとか解決できる。

 

とにかく、平成3年~5年は、舞台制作スタートの時期だった思い出深い期間だ。

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

熱い?

何十年前だったか思い出せないが、「役者やのぉ!」と言う流行語があった。

「花の応援団」という男の子向けのマンガだったと思う。

 

昨日、今日と菅新内閣がゴタゴタしていた。まさか大臣が・・・辞任とは。

こんな筋書きは誰が書いたのだろう。

一本の脚本に四苦八苦している私にとって、羨ましい才能だ。(皮肉かなぁ?)

まじめに俳優、役者をめざしている人には、あまりいい比喩ではないが、

政界には個性豊かな(?)役者がいるものだなと感心する。

 

菅新総理の所信表明演説を聞いた。53年生きてきて、まともにちゃんと聞いたのは、

田中角栄さんの時以来2回目だ。

言葉や表現が重要な世界に住んでいるが、人を魅了するには、やっぱり 「熱さ」は重要だ。

日本の財政問題が最優先課題で、文化や芸術にはあまり触れてもらえなかったのが残念。

間もなくまた選挙だ。

 

選挙といえば、アイドルの世界でも年に一度の選挙があったようだ。

古くは、「御三家」から始まって、「中三トリオ」「おニャン子クラブ」「モーニング娘」と

時代と共に変化していく。さすがに今はついていけない。

 

何が言いたかったのだろう。????

たぶん・・・

芝居の題材は、昔からその時代を反映する内容が多い。

現代の社会をモチーフにするには、あまりにも話題が多すぎて、何に焦点をあてたらいいのか

迷ってしまいそうだ。しいて言えば・・・・・

やっぱり、「熱い芝居」が作りたいのかもしれない。

| コメント(0) | トラックバック(0)

学閥

またまた日本の代表が交代した。

政治の世界ではよく「派閥」と言う言葉を耳にする。

いい方に解釈すれば、同じ考え、方向性を有する人達の集まりだ。

同じように、「学閥」という言葉も耳にする。

体育教師をしていた時に、この「学閥」なる言葉を初めて耳にした。

 

ある日その年のバスケットの授業内容の打ち合わせがあった。

バスケットのルールをどんな授業内容で進めるか。

ゲームを主としてとか、小テストをしてからとか、審判資格を取る為の資料を題材にとか・・・

突然、「広瀬先生どう思う?」

「はぁ、・・・授業内容は統一しなくてはいけませんか?要は生徒に正しいルールを・・・」

一斉に(といっても4人の先生だが)睨まれた。

「バラバラな内容は混乱を招きます。先生によって教え方が異なるのは困ります。」

???????

「生徒達が、楽しく興味を持ってルールを覚えてくれればいいと思うのですが・・・」

火に油を注いだようだった。そしてピシャリと・・・

「広瀬先生の大学では・・・あぁ・・・ 私たちの大学閥にはそんな考え方はありませんから。」

のん気な私は意味がよく理解できなかったが、後日友人の体育教師に聞いてみた。

「体育関係は、日体大出身の考え方と、教育大出身の考え方に分かれているんだよ。

まぁ、学閥ってほどでもないけど、教育方針がだいたい決まってる。」

「へぇ~ バスケットのルールはどこで学んでも同じやろ?」

「たしかに。しいて言うなら・・・スタイルの違いかな。」

 

私は私なりの授業をすることにした。

全員が一度は審判をすることにし、ゲーム主体で楽しく授業を進めた。

違反があった時点でゲームを止めて、内容を確かめるという方法で。

めったに起こらない違反を私がゲームに参加して、わざとファールしたりとか。

けっこううまくいったと思っていたのだが・・・・・体育主任に一言言われた。

「ゲームはいいですが、しっかり準備運動をして下さい。それと、先生があまり夢中に

ゲームに参加しないように。」と。 どこで見てたんだろう。

 

演劇にも多少学閥はあるかもしれないが、共通したルールのようなものは、

あまり存在しないのが救いかもしれない。

| コメント(0) | トラックバック(0)

劇場法

今演劇界がざわざわし始めている。

「劇場法」

先日、演出家協会関西支部の会合に参加したときにも、問題になっていた。

全国にある公文協の劇場に関する法整備だ。 賛否両論。

 

日本の演劇文化は、そもそも民間劇場で発展してきた。公共ホールにおける自主事業は、

だいたいがパッケージでの買い取り公演が中心だった。

自主製作で優れた作品を提供し始めたのは、たぶんバブル時代の頃だと思う。

私も民間劇場に勤務していた時に、自分がてがける作品を様々な国の助成制度を活用

しようと試みたが、すべて否定された。

一番の問題は・・・ 赤字公演でなければならないのだ。

まぁたしかに税金を使うわけだから、理解できないわけでもないのだが・・・・・そこで・・・

良質な作品をお客様にてごろな値段で見ていただくために、ある提案をした。

演目によって異なるが、劇場自体を5000円劇場にしてしまおうと。

公演自体は赤字になる。しかし地域での文化発展のために協力するのだから、

年間を通して劇場に助成をお願いしてみた。

まぁ結果は明らかで、民間というだけでボツ。

 

結局民間劇場は、企業の広告の一部だったり、オーナーの情熱に左右されたりしながら

運営されてきている。

公共ホールと言えば両極端あって、お役人が作業として運営されているところと、演劇や

芸術に理解を持って積極的に取り組んで運営されているところがある。

 

この法案に関しても、日本の文化を国として取り組むという考え方と、芸術に政治が介入

する事への不満とがぶっかっている。

デンマークでは、国が積極的にいろんな文化芸術活動を援助するシステムが出来上がっている。

 

今年の秋には、民主党政権下で劇場法は成立するかもしれない。

全国の公のホールに(選別はあるらしいが)予算が組まれ、任命された人が年間の演目を

決定して、みとめられれば支援、助成を受ける事が出来るらしい。

問題はたぶん・・・その基準内容だと思う。

 

昔からだが、何が芸術で、何がそうでないのかは、線引きできるものではないような気がする。

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

ニジンスキー

ワスラフ・ニジンスキー 久しぶりに彼の名前を目にした。

ニジンスキーの踊った作品 「薔薇の精」「黄金の奴隷」「ペトルーシカ」「牧神等」は、

男性舞踊手なら、誰もが挑戦したい作品だ。

彼の人生をモチーフにした作品がある。

「ニジンスキー・神の道化」

人生の後半は狂気の世界に生きたニジンスキーが、分裂症発病前後の正気と狂気の狭間で

書いた日記をもとに、その生涯をたどった作品だ。

確か、モーリス・ベジャールの振り付けで、ジョルジュ・ドンがニジンスキーを演じた。

 

話が少し飛ぶ。

 

ある時バレエ公演の振り付けに、「日本のニジンスキー」と呼ばれていた先生がこられた。

男性ばかり10人ぐらいの作品だったような気がする。確か・・・「砂漠」???だったと・・・

出演者の一人に松健サンバでおなじみの、真島茂樹さんもおられた。

駆け出しだった私は、とにかくついて行くのがやっとだった。

その先生は、頭にてぬぐいを巻いて、スリッパで振付をされるのだ。

今でもお元気にレッスンされている。一度訪ねてみようと思う。

 

後年、山田卓先生に出会ったとき、山田先生がよく口にされていた。

「この世界でがんばるには、いいライバルが必要や。わしのライバルは関直人やった。」と。

 

ニジンスキーのお芝居もある。映画にもなった。

今一度読んで見ようかなぁと思う。

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

遠足

ピカピカの一年生がぞろぞろと、家の横の道を歩いて上がってきた。

たぶん、遠足だと思う。

大きなリュクを背負って、楽しそうに手をつないで歩いていく。

幼い頃の遠足と言えば・・・・

六甲山、甲山、服部緑地、須磨水族館、阪神パーク、森永?雪印?の工場見学

王子動物園、京都、奈良公園と若草山・・・等など

 

小学校の遠足で、「徒歩遠足」と言う遠足があった。

当時通ってた小学校の近くに、「武庫川」が流れていて、その河川敷を歩く遠足だ。

かなりの距離だった気がする。おやつが配られるのだが、キャラメルひと箱。

目的地はたしか・・・上流にあった交通公園だった。

 

昭和30年~40年は、高度成長期。中学の遠足は、「大阪万博」だった。

一番の人気パビリオンは、「アメリカ館」。

アポロ13号(たぶん)が月から持ち帰った、「月の石」

残念ながらあまりの混みようで、見れなかった。

唯一印象の残っているのは、「白いトラ」がいたことだ。

大勢の人たちに見られて、疲れていたのだろう。

ずっと悲しそうな顔をして、俯いていたのを覚えている。

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

おばあさん役

北林谷栄さんが亡くなった。

「日本のおばあさん」を演じる名女優さんだった。

私なりの幼い頃からのおばあさん役と言えば・・・・・

 

(生まれた順)

浦辺粂子さん    1902年~1989年  87歳   

浪花千栄子さん   1907年~1973年  66歳

原ひさ子さん     1909年~2005年  96歳

北林谷栄さん     1911年~2010年  98歳 

南美江さん      1915年~

ミヤコ蝶々さん    1920年~2000年  80歳

賀原夏子さん     1921年~1999年  78歳

菅井きんさん     1926年~

初井言榮さん     1929年~1990年  61歳

 

戦前、戦後に生まれ、どの方の生き様をみても、苦しい人生の中を生きてこられている。

 

浦辺さんを知ったのは本当に晩年で、片岡鶴太郎さんが「小森のおばちゃま」と、

浦辺さんの物まねをされていた。

浪花千栄子さんは関西の重鎮で、「おばあさん役」といったイメージではなかったのだが

どこか祖母ににていたので・・・・・オロナイン軟膏のCMが印象に残っている。

原ひさ子さんは、「踊る大捜査線」が印象的だが、昔の映画をみると、なんともお美しい。

北林さんが明治生まれの最後の女優さんだと思うのdが・・・

 

明治、大正、昭和、平成と日本の激動時代を見てこられた。

演劇の移り変わりを体験し、時代に翻弄されても尚芝居をつづけてこられた。

映画、TV、舞台にと。

この年齢になっても先輩方の話が聞いてみたい。

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

子供ミュージカル

 

子供ミュージカルの作品に出演した時だった。台本製作のお手伝いをしたことがある。

作家から意見を求められたのだが、ことごとく・・・「う~ん」と。

子供が対象の時には通常より制限が多いらしい。

まず、人は殺さない。残虐のシーンはNG。

ストーリーは解りやすく、楽しく笑えるシーンを半分ぐらい入れるそうだ。

上演時間は、その当時(今もかも)授業時間に合わせて、45~50分(一幕)

そして最後に夢を抱いてもらえるシーンが必要になってくる。

 

そんな沢山の制限のなかで、台本が仕上がってくる。ところが・・・・・

「むかしむかし象が来た」(今は「九郎エ門」かな?)の作品に出演することになり台本を読んだ。

「いいのか?これ初演の時大丈夫だったんですか?」と先輩に思わず尋ねた。

なんと劇中で象が死んでしまうのだ。

当時も相当ご苦労があったようだ。

客席で子供達が声を出して泣いてしまい、たいへんだったそうだ。

 

勿論作り物なのだが、鼻も瞼も耳も尻尾も動くし、涙まで流すのだ。

一緒に舞台に立っていると愛着がわく。しかも・・・・・

この象、九郎エ門の生みの親である美術のかたが、稽古中に不慮の事故で亡くなられた。

とても複雑な心境だった。

 

俳優は観察力が必要な職業だ。

この作品に関わった時に、何度か動物園に足を運んだ。

猫の役がついた時は、近所の猫を追いかけまわし、馬が重要な作品では、乗馬場にも通った。

動物園の象の前で観察したことは、動きやしぐさではなかった気がする。

いろんなことが重なっていた時期だったので、自分の心の整理をしていたのだと思う。

 

共演者はみんな人間とは限らない。

俳優さんが一番苦手とする共演者は、子供と動物。

芝居がくわれるからと。

私もいろんな人達と舞台に立って影響は受けたが、美術?に心を動かされた自分に驚いた。

後日、観劇した子供たちから作文が届いた。

「家族がいなくなるのは淋しいです。」とか「お墓はどこにありますか?」とか。

真っ直ぐな感想が寄せられた。

一方子供たちは遠慮などなく感じたことを口にする。

開演してすぐに一番前に座っている子供が必ず浴びせる言葉がある。

「あぁ、おっさんや。」 「大人がやってるんか。」等など。

ある日・・・

「あぁ、すね毛はえてる!」

不覚にも笑ってしまった。

 

何本か子供ミュージカルに出演したが、それぞれに思い出がある。

また、地方によっては反応する場面がちがうのだ。

そしてなによりも教えられたのは、子供たちは自分の興味のある人物を追っかけて見る。

それは主役とかアンサンブルとか関係ないようだ。

しかも細部にわたってみている。

子供たちの前に立つと、いい意味の緊張感がある。

重厚な芝居。大人向きのミュージカル。

私はなぜか子供ミュージカルが好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

おくどさんと五右衛門風呂

何十年ぶりかに懐かしい言葉を耳にした。

先日TVで、「銀シャリ屋」の話が放映されていた。

自然の井戸水と自家製釜で炊き上げる、ご飯一筋の店が閉店する。

ご主人の口から、「おくどさん」の言葉が。

四十年ぶりに耳にした言葉だ。

「おくどさん」

ご飯を炊く釜のことだ。

 

父の故郷 津幡の家は、とても古い造りでとにかく広かった。

土間にふたつの大きな釜があり、毎食その釜でご飯を炊いていた。

土壁でできていた釜に、最初は藁に火を付け、薪にうつす。

時間はかかるが、美味しいご飯が炊きあがる。

母の口癖。

「お家にもおくどさんがあったら、毎日おいしいご飯が食べれるのに。」

 

おおきなお屋敷のような家だったが、お風呂がなかった。

いつも父と近所の銭湯に行っていた。

その銭湯には・・・・・

おおきな浴槽の横に、なんと「五右衛門風呂」があった。

最初私はお風呂の浴槽の前に、なぜ木製のゲタが置いてあるのかが・・・???

「五右衛門風呂」 幼い私には、おくどさんにみえた。

 

今でもきっと何処かで使われている言葉だろうし、釜でご飯を炊いている土地もあると思う。

夏休みに遊びに行った「おばぁちゃんの家」には、いくつもの思い出がある。

冷たい井戸水につけたスイカ。

おくどさんで炊いたご飯。

お風呂屋さんの五右衛門風呂。

豚さんの香取せんこうたてと蚊帳。

 

昭和三十年代の思い出が、懐かしい言葉を聞いてよみがえってきた。

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

タブー

私たちの仕事場は、劇場。

どんな職業にもしてはならない事がある。タブーとでもいうか・・・・・

 

ある作品の舞台稽古の時だった。私はいつものようにメークを済ませると、早めに袖にいった。

自分の歌をかるく口ずさんでいた。ハミングだったかもしれない。すると・・・

「バカヤロー 口笛ふくんじぁねぇ!!!!!!!」

突然怒鳴られた。

振り返ると、職人気質の舞台監督さんだった。

すると、大先輩がニヤニヤしながら手招きで私を呼んでいた。

「お前ハミングしてただろう。それが口笛吹いてると思われたんだよ。」

「???????」

「今はあんまり関係ないんだけどな・・・」

内容はこうである。

「今はスタッフの舞台転換などはインカムを使うけどな、そんなものがない時代はな、

舞台監督の口笛が合図だったんだ。相当昔の話しだけどな、だから以来舞台袖での

口笛はタブーなんだよ。」と。

 

劇場でのタブー、迷信、ゲン担ぎの話しを聞いた事がある。確か・・・

「マクベス」以外の作品に出ている時には、「マクベス」の話しはしてはいけないとか。

そのカンパニーに不幸が起こるらしい。間違って口にしてしまったら、急いで劇場を飛び出し

ドアの外で大声を出して、誰かがドアを開けてくれるまで待ってなくてはならないらしい。

 

本番中にもこんなことがあった。

舞台上で突然、本当に突然なんの前ぶりもなく先輩が私のほうにやって来て、

私の首を抱えこみ(ヘッドロックのように)耳元で囁いた。

「上をむくな!」

私をちがうポジションに引っ張っていき、何食わぬ顔で芝居をつづけた。

「???????」

一幕終了後急いで聞きにいった。

「あのぉ~ さっき何かまずい事しましたか?」

「あ、あれか。お前聞こえなかったか?」

「???」

「頭上でパ~ンって音。」

「???」

「水銀灯が割れた音だよ。水銀灯が割れるとな、細かいガラスの破片がヒラヒラ降ってくるんだ。

その時上を向いてるとな、目にその細かいガラスの破片が入って大変なことになるんだ。

大丈夫だったか?」 なるほど。感謝。

現在の照明機材には水銀灯は使用されていない。

 

舞台経験とは、いろんなことを意味するんだなぁと思った。

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

さくら

 

桜といえば思い出す場所がある。

千葉県 習志野 総武線 津田沼駅 

1981年4月8日~5月13日 まで、全国公演に出かけた。

初日が津田沼駅前の会館で、改札口を出て歩道橋を渡ると、そこに満開の桜が。

前年の80年に初舞台を踏み、9月15日~12月20日までの超長旅に出たが、

途中ぜんそくになり、10月末にあえなく降板。苦い思い出がある。

二回目の旅公演だ。

 

千葉県 習志野をスタートし・・・・・

甲府、新潟、金沢、京都、名古屋、大阪、博多、小倉、広島、岡山、高松、神戸、

浦和、秦野、山形、仙台、旭川、室蘭、札幌、磐田、横浜、清水、立川 全25公演

「全国旅ができていいですね。」と、よく言われるのだが、実は駅と宿と劇場しか覚えてない。

 

旅公演中のスケジュールは・・・ 前日の公演地から移動。そしていくつかの班に分かれて

ごあいさつ回り。開演3時間前には劇場に入り、アップとリハーサル。そして本番。

終演後は舞台のバラシを手伝い、自分の荷物をボテ(柳行李)に片づけ、夜のお付き合い

に出かける。深夜に開放されて、やっとホテルに戻ってくる。それの繰り返しだ。

唯一の楽しみは、次の公演地が遠距離の場合、一日移動日がある。

 

途中東京に戻れる日が何日かある。私も自宅に帰ったのだが、ドアを開けてびっくり。

すごい臭いがする。急いで雨戸を開け・・・足元を見て・・・畳がカビだらけに。

台所から異臭がする。いつも旅に出る時は掃除をして出かけるのだが・・・

じゃがいもから芽がはえている。怖々と冷蔵庫を開けると・・・ 野菜が腐っていた。

??????? よ~く見ると・・・ コンセントが抜けていた。ひぇ~。

たぶん出かけに間違えて抜いていってしまったのだろう。

 

旅公演には旅公演手帳がもらえる。いろんな情報が書いてある。

そのひとつに移動手段、交通の欄がある。

(急)アルプス5号 (特)とき20号 (特)はくたか 宇高フェリー (特)つばさ

(特)月山 (特)ライラック8号 等など 懐かしい名前だ。

東北、上越新幹線がない時代だ。もちろん、東海道ものぞみなどなく、ひかりかこだまだ。

 

話をもどそう。

 

習志野の桜を見て、「今年はこれが見納めか。」と。西に向かって進むのだから、

「もうゆっくりみれないなぁ」と思っていた。

五月に入って北海道公演のため、旭川に向かった。旭川空港の上空にさしかかった時、

眼下には一面の桜が咲いていた。美しい眺めだった。

その日は北海道の夜桜をゆっくり堪能した。

 

今年は例年になく長く咲いている。週末あたりから、一斉にはなびらが舞い始めるだろう。

 

 

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

甲子園球場

東京にいたころ「故郷は何処?」とよく聞かれた。

「西宮、甲子園のある町だよ。」

「大阪なんだ。」と。

関東の人は甲子園が大阪にあると思っている。今はどうかわからないが。

 

西宮で育った私は、何度が甲子園球場の土を踏んだ事がある。

西宮市のすべての小学校が一同に集まって運動会をする。

また、西宮市のすべての中学校が一同に集まって運動会をする。

そこで学校対抗のリレーがあったり、組み体操があったり・・・・・

 

春と夏には高校野球が行われる。

夏休みにかち割り(氷をただ砕いたもの)を売るバイトをしたことがある。

けっこうな体力が必要なんだが、なにしろバイト代が当時としてはよかったのだ。

困った事はただひとつ。売れるのが先か、氷が溶けるのが先かなのだ。

 

西宮市は昔から宮水が有名で、お酒造りがさかんな町。

甲子園球場のすぐ横にプールがあり、そこの水は地下水をくみ上げている。

とても冷たい水なのだが、なぜか泳ぎやすいのだ。

阪神パークという遊園地もあった。

甲子園球場で花火大会もあった。もちろんタイガースの試合も。

 

春のセンバツはもう終わる。

今年はひさしぶりに真夏の高校野球をみにいこうかな。

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

宮崎

中学時代の友人が、宮崎県日南に引っ越しする事になった。

彼とは小学校からの友人で、中学時代は体操部で一緒だった。

 

宮崎県には有名な釜揚げうどんの店がある。(店名が出てこない)

四季時代に宮崎を訪れる度に、先輩に連れられてうどんを食べにいった。

当時から宮崎は巨人軍のキャンプ地で、店にはたくさんの選手のサインが飾ってあった。

そこには、劇団四季〇〇さんの色紙も飾られていた。

 

数年後、後輩を連れてその釜揚げうどん屋さんに行った。

出来立てのうどんを美味しく食べていたとき、後輩の一人がうどんを口から・・・・・

口を押さえ店の出口に走りだし、表に飛び出た。

「何があったんだ?」

後を追って私も表に出た。すると、何故か腹を抱えて笑っていた。

「どうしたんだ?」

「店の壁にあった色紙見ました?」

「どの?」

「〇〇さんの色紙です。」

「あぁ、昔からあるよ。」

「見てきてくださいよ。」と。

言われるままにもう一度店に入って見慣れた色紙を見てみた。・・・・・・・

私も笑いを堪えて表に飛び出した。

 

ずらっと並んだ野球選手の色紙に混じって、今では有名な俳優さんの色紙があった。

もちろんその方は私たち劇団の先輩だ。しかし・・・その色紙の下のほうに・・・

付箋が貼られていた。

「この人誰?」と。

いたずらかもしれないが・・・おもわず・・・笑ってしまった。不謹慎にも。

また宮崎に来られる事もおありだろうと、こっそりはがしてはきたが。

 

全国ツアーに出ると、いろいろおいしものに出会える。

旅はいいものかもしれない。

 

| コメント(1) | トラックバック(0)

自然

朝起きて雨戸をあけると、どこからとなく、鶯の鳴き声が聞こえてきた。
梅の季節に鶯は鳴く。  「梅に鶯」なんだっけ? あぁ・・・花札。
 
近所では色々な生き物を目にする。引っ越し当初にわが目を疑ったのは・・・
ある日自宅前の空き地に、黒いまん丸いものが蠢いていた。しかも親子で。
ネコ? 親らしきほうがこちらをにらんでいる。
草がぼうぼうと生えていたので・・・ガサガサと音を立て、道に出てきた。
タタタタ タヌキだぁ!!!!! 
こっちの事は気にすることもなく、おしりをふりふり、の~んびり歩いていった。
 
春先には、毛が抜け落ちたキツネも見た。口に餌を咥えていた。ネズミ。
 
当時は山陽新幹線のトンネル工事のため、六甲の山々が騒がしくなってきていた。
そのためか、ついにイノシシが山から下りてきた。
 
庭には、モズや鶯。
コンコンコンコンと音がした。大きな木に、キツツキがいたこともあった。
 
40年住んで、一番驚いたのは・・・・・
家の前に水路がある。ある日その水路に首を突っ込んでいるなにかがいた。
またタヌキか。いやいや、なんだかもさもさしている。
首をあげこっちを見た。やっぱりタヌキだ。あああ・・・手になにか持っている。
するとまた首を突っ込み、バシャバシャと音をたてている。
ああああ アライグマだ。!!!!!!!!
ペットとして飼われていたのが、逃げ出したのかもしれないが、確かにアライグマだった。
 
残念ながら最近は、イノシシ以外あんまり見かけない。
みんな何処行ってしまったのだろう。 少しさびしい。
| コメント(3) | トラックバック(0)

 

今から四十年前父が「家を建てる。一度その土地を見に行こう。」と。

母のオンボロ車で出かける事にした。西宮と芦屋の境で、少々高台にあるらしい。

「もうすぐだ。」

車が坂を上りかけた。閑静な住宅が建ち並んでいる。

坂道の行き止まりが・・・ そこには神社があった。越木岩神社。

「その横のじゃり道をあがるんだ。」と父。

家が一軒も建ってない。昼間なのになんだか薄暗い道。そしてふた筋めに・・・

「そこ、そこや。」

三叉路の角の土地?というより草ぼうぼうの荒れ地だった。母が一言。

「此処どこ?」

帰りの車中は、母の質問の嵐。

「水道は通ってんの? 一番近い駅まで何分? 買い物は何処ですんのん? 電話線は?・・・」

そして・・・

「ガスは?」 それまでなんでも丁寧に答えていた父がぼそっと。

「プロパンや。」すかさず母が、「絶対嫌!」

 

数ヵ月後の春、地鎮祭のために再度行くことになった。

オンボロの車が坂道にさしかかった時、母が声をあげた。

「うわぁ~きれい!」

道の両側に満開の桜。まさに、桜並木だ。

 

あれから40回もこの風景を見てきた。まもなくまた桜が咲く。

家の周りも賑やかになってきた。

41回目の桜並木は・・・ひさしぶりにゆっくり歩いてみようと思う。

 

 

| コメント(1) | トラックバック(0)

趣味

 

私の母は59歳という若さで人生を終えた。母の兄も確か59歳で亡くなった。

人に、「趣味は?」と聞かれると、「将棋とパチンコ」と答える私。

その将棋を教えてくれたのが、伯父だ。

伯父は不思議な人だった。京都の野球の名門高校で甲子園を目指していたらしい。

戦争行き、鉄砲弾が歯にあたり、以降総入れ歯になったらしい。

「あたった弾はここにおる。」といつも盲腸のあたりを指して自慢するのだが、眉つばものだ。

 

戦争から戻り、一流商社に勤めるのだが、あっさりと退職。

自宅を改装して録音スタジオをつくり、何かの番組を制作していたようだ。

昭和42~3年頃の録音機材は、手でガチャガチャするテープレコーダーだけだった。

幼い私の歌をときおり録音してくれるのだが、歌わされる歌はいつも決まっていた。

村田英雄さんの、「王将」だった。」 吹けば飛ぶよ~な 将棋の駒に~・・・

 

京都 烏丸鞍馬口が母の実家で、行けば必ず伯父が、「一局やろう。」と。

始まった。いつものパターンだ。

将棋を指しながらウイスキーを飲む。肴はハムだけ。そして・・・

「正勝 おっちゃんはな、プロの棋士になりたかったんや。戦争さえなかったら・・・・・

ええか、 おまえはサラリーマンになれよ。」 小学生の私には?????だった。

 

数年後、病床に伏せる伯父のお見舞いに行った。

いつもと同じように将棋板を出してきて、「一局やろう。」 そして・・・

「正勝 お前なんかのプロになれ。プロになるまでには苦労は多いけど、

きっと人生は楽しいぞ。生まれかわったら、おつちゃんは絶対棋士になる。」

その一局が最後だったのだが、鬼のように強く、叩きつぶされた。

ちなみに伯父はアマ四段。私も初段ぐらいの実力はあったのだが・・・・・

 

飽食の時代に栄養失調で逝ってしまった。

 

今、伯父の「プロになれ。」の言葉が、なぜか耳に聞こえる。

 

 

 

| コメント(2) | トラックバック(0)

変化

創業 1870年 名門 神戸元町 「オリエンタルホテル」

阪神大震災で全壊、廃業していたホテルが、来月復活する。

幼いころ家族で神戸にでかけるたびに、オリエンタルホテルのカレーを食べにいった思い出が・・・

幼いころの思い出の場所は、時代とともに次々とかわっていく。

 

かわるものと、かわらないもの。

 

先日ひさしぶりに上京し初めてすんだ街に行ってみた。

京王線 千歳烏山 34年前に初めて住んだ街だ。

六畳一間に猫の額ほどの台所と、タイル張り様式トイレになんとシャワァーがついていた。

風呂代 40円の時代。

20000円の家賃は、50000円の仕送りから捻出できる限度いっぱいだった。

ここからスタート 大学、バイト、レッスン、恋愛・・・・・

旧甲州街道沿いをぶらぶら歩いて、仙川の友人宅によく行った。

また機会があれば、自分のすんだ街をぶらついてみようと思う。

千歳烏山、国領、初台、幡ヶ谷、すべて京王沿線だ。

 

話しが飛ぶ。

 

ひさしぶりに大学時代の友と会った。湘南の海岸沿いのレストランで。

まわりの風景はずいぶんと変わったが、波の荒荒しさは変わらない。

変わるものと、変わらないもの。 

見た目はもちろん老けた。あたりまえか。だが、仕草や口調、性格はかわらない。

髪が薄くなってもセットは昔通り。

現実は、大病をして生死を彷徨った友。今まさに生死と戦っている友。

暗い話しになりかけると、私たちの世界の話題になる。

定年はないが収入は不安定。しかし夢があると思われている。

否定するわけにはいかない。若き日 彼達が支えてくれた。

ご飯を食べさせてくれ、まったく興味のないバレエのチケットを買ってくれ、

へたくそな私を、「凄いな、よかったよ。」とヨイショしてくれた。

「友情は変わらない」 と思いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

芝居制作

 

前から考えていた事を、いよいよやってみようと思う。舞台作品の上演方法だ。  

日本ではアメリカのようなトライアウト形式は馴染まないし、費用もかかる。

ある程度稽古を重ねた段階で、試演会をやってみようかと思う。

公開の通し稽古と考えればいいかもしれない。納得がいく意見があれば修正する。

一度作り上げると、なかなか変えることには勇気がいるのだが。

なぜなら、その日まで時間をかけて稽古してきたことが、無駄だったように感じるからだ。

 

稽古初日に手にした台本の内容と、上演内容が異なっていても、なんら不思議ではない。

問題はだれに見てもらうかだ。無論一般のかたも必要だし・・・

劇評家、芝居仲間、スタッフ、うう・・・  浮かんでこない。

 

演出をころころ変えていいものか悩むだろうなぁ。「ころころ変える」のではなく、

よりいいものが見つけられたのなら、本番初日でもチャレンジするべきだ。

 

きめ細やかな芝居制作をしょうと思う。そして評価を受けたい。

 

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

歌、唄は奏でる Ⅱ

 

先週のつづきを少し。

 

山下美音子先生のレッスンは、30~40分みっちりと発声練習から始まる。そして課題曲。

まず、楽譜通りに練習。ほとんどが英語の歌詞だ。OKがでると次は崩して練習してくる。

ところがだ、「崩して歌う。自分流に。」がわからない。だんだん苛立ってくると・・・

たった一度だけ見本で歌ってもらえる。録音し家に帰って物まねが始まる。

厳しかったのは、発音だ。日本語では余計に厳しかった。

アクセント、鼻濁音、無声音、母音、子音等など。 そして・・・

「歌、唄は奏でるのよ!」と。

技術的におぼつかない私にも、高い?ダメが飛ぶ。 

今でも毎日レッスンをされてるようだ。パワフルに。

 

さて今年の劇団の演目に少し触れておこう。

「エリザベス」 今私が興味を魅かれている。メアリー女王との経緯(いきさつ)。宗教問題。

大国スペインとの戦い。一人の女性が担うには、あまりにも大きな事項。

生涯英国を愛しつづけ、個人の人生を犠牲にしても立ち上がった彼女には、魅かれるものがある。

たくさんの作品で描かれてはきているが、私もチャレンジしてみたい。

 

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

歌、唄は奏でる Ⅰ

 

今日から何回かにわたって歌の話しをしょう。

 

ミュージカルがしたいがために東京に行き、レッスンを始めた。

クラシックバレエ、ジャズダンス、タップダンスと稽古場を探し、順調にレッスンをしていた。

残るは歌だ。

当時私は親からひと月 50000円の仕送りをしてもらっていた。

新大阪ー東京間 10000円弱 お風呂屋さんが 40円の時代だ。

いろんな人に聞きまくった。条件は 10000円までで。

家賃が 20000円 その他のレッスン代が 28000円 深夜~朝方までバイトをして

なんとか捻出できる金額がそれしかないのだ。 聞けば歌のレッスンは高いらしい。

 

ある日バレエのレッスン後に、新宿コマダンサーのお姉さんが、

「広瀬君、いい先生いるわよ。ただ・・・ちょっと怖いけど。」と。

山下美音子先生。 劇団をご夫婦でなさっている。

さっそくコンタクトを取り、明大前のご自宅にレッスンに行った。

一目みた瞬間・・・  「やったぁ 怖そう。上手くなれる!」だった。

丸いお顔にギョロッとした目。ポッチャリ体型でハスキーボイス。

儀礼的なあいさつを交わすと、さっそくレッスン。発生練習だ。ただひたすら声を出す。

15分後 ピタリとピアノが止まる。そして一言。

「ひどいねぇ あんた。」 ひぇ~・・・・・・・・ 

レッスン中断。そして・・・質疑応答タイム。

「なぜ習いにきたのか?」「何になりたいのか?」「誰をめざしてるのか?」「生活は?」等など。

まるで面接だった。そして突然・・・

「7000円」

「はぁ? 一回 7000円ですか?」

「バカ そんな高いわけないでしょう。一か月 4回 7000円 マッサージ付き あぁ 2回ね。」

当時大学でスポーツマッサージの講義を受けている話しをしたからだ。

「私 肩こり凄いの。」

私はすんなりOKしたのだが、これがまた本当に凄い肩こりを後で知ることになる。

一日最低でも、7~8人の稽古をつけているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

マッサージ付きレッスンの日は、決まって一番最後。夜 19時からのレッスンだった。

だぶん金曜日だったと思う。

てっきり私はあくる日が休みだからと思っていたのだが・・・・・

山下先生について行こうと思ったのは、後日談からだ。

2週間に一度先生は、ご自分のピアノのレッスンに行かれるそうだ。それが土曜日。

私がマッサージをした次の日だ。一度訊ねた事がある。

「なぜピアノのレッスンにいかれるのですか?」

「え?」

愚問だった。歌のレッスンに来る生徒のためににきまっている。

 

こうして、一月 4回 1時間 7000円 40分のマッッサージ付きのレッスンがスタートした。

罵声とお腹へのパンチが飛び交うレッスン。

 

   次週につづく・・・

 

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

続 ブログ

 

私のブログを読み返してみると、「いづれまた」とか、「続きはそのうちに」がよく出てくる。

今日は書きかけになっている文章を、少し先に進めてみることにする。

 

「人間になりたがった猫」公演の事件編

鹿児島からスタートして何公演目だったか覚えてないが、佐世保で事件?は起きた。

順調に公演が進み、あと10分ぐらいだったと思う。

私は出会った人々と別れを惜しみながらも、生まれ故郷に戻る決意をする。

「みなさん、さようなら」

上手に引っ込んだ後はホリ裏を駆け抜け、下手にいかなくてはならないのだ。

実は上手に引っ込んだ時に、何かにぶつかってそこから数十秒記憶が飛んだ。

舞台袖の反響板に正面衝突。気がつくとかすかに歌が聞こえてきた。

ライオネルが去った後、村の人達が「ライオネルを探しに行こう」という歌を歌っているシーンなのだ。

いつもは客席に向かって歌うのだが、袖で倒れている私を起こそうと、袖に向かって歌っていたのだ。

「やばい 下手に行かなくちゃ」

かろうじて次の出番に間に合ったのだが、「スタンバイが遅い」と事情をしらない先輩に怒られた。

終演後楽屋に謝りに行った。すると・・・大笑いの声が廊下に聞こえてきた。

「広瀬ってほんとびっくりさせやがるぜ。上手に入ったとたん、バーン フラフラフラ バターンだもな。」

「反響板にぶっかつて気絶した奴なんて初めて見たぜ。」

「あいつ気がついて、俺たちのほう向いて手ふってやがんの。心配してんのに笑かしやがる。」

「まぁ怪我しなくてよかったな。」等など。

廊下で大声で叫んだ。

「今日はすいませんでした。」と。 それですましてしまった私。

 

あくる日か?何日か経ってか思い出せないが、朝起きると声が出ない。 びびびっくり!!!

病院に飛んでいき・・・ううううう・・・ 生まれて初めてノドに注射した。怖かった。

初舞台から一年も経っていない私にとって、あまりにも過酷な経験だった。

 

日々なにが起こるかわからないのが、生の舞台。一瞬たりとも気が抜けない。

舞台の緊張感は好きだった。今も袖にいると緊張する。

 

さて、話しはまた飛ぶ。 J・D・サリンジャーが亡くなった。「ライ麦畑でつかまえて」の作者だ。

91歳。 天寿を全うした。社会との接触を拒み隠遁生活を送っていたと聞く。

何歳だったろう。「ライ麦畑~」を読んだのは。 一度だけでは理解ができず、何年か放置していた。

合掌

 

| コメント(0) | トラックバック(0)

芝居の題材

 

久しぶりにいろんな本を読んだ。最近無償に活字が恋しくなる。

ジョセフ・オットー・ケッセルリンダの「毒薬と老嬢」だ。

賀原夏子さん率いる、劇団NLTが二十二、三年前に上演している。

確か・・・銀座博品館劇場だったと。

見るからに品のいいお人よしのおばあちゃんたちが、12人もの老人を殺し、

少しも悪びれていないという話。お腹を抱えて笑った記憶がある。

 

翻訳作品は俳優の力量が必要だ。反対に・・・

新作作品はキャラクター作りが重要になってくる。

 

新作の題材探しをしているのだが、なかなか難しい。

歴史をさわがせた女性はたくさんいるのだが、ほとんどが芝居か映画化されている。

イサベラ、エリザベス一世、メアリ・スチュアート、マリア・テレジア、ジャンヌ・ダルク

西太后、エレクトラ、サロメ、クレオパトラ等など。

夙に有名なのが・・・オーストリア最後の皇帝 フランツ・ヨーゼフ一世の妻 皇后。

あの美貌の エリザベートだ。彼女を扱った作品はたくさんある。

 

いろんな国の最後の皇帝、カイザーを描くと、そこには必ず皇后の苦悩が描かれている。

ロシア最後の皇帝 ニコライ二世の妻は、あの伝説のラスプーチンに翻弄されている。

こうした歴史的背景は、あまり勝手にかえる事はできないのだが、新解釈は可能だ。

 

難しい方、難しい方に考えがいってしまう。あまり深く考えるのはやめよう。

見て楽しい作品は決まりつつある。

THE 新劇的作品 もう少し悩んでみようと思う。 

| コメント(0) | トラックバック(0)

「演劇取材の現場と劇評」

 

先日、関西演出家協会関西ブロックの企画に参加した。

「書く側」と「書かれる側」の双方の意見を聞き、沈滞気味な関西演劇界を、「何とかしょう」という事だった。

パネラーは、朝日、毎日の演劇担当記者と、演劇批評家の先生だ。

う~ん・・・  一言で言えば、残念だった。

どの職業も不況の嵐で、それぞれの会社事情を聴くだけになり、「泣き言」の・・・・・

 

私より上の世代では、銀行が潰れる事は予想できなかったし、新聞の必要性が見直される

時代が来るとは、思ってもいなかった。と、思う。

劇評は対象になる作品が生み出されてこそ成立する。

しかし掲載する紙面が少ししかなく、メジャーなものが優先するらしい。

 

一昔前の舞台の宣伝活動といえば、広告を出したり、TVスポットを打ったり、チラシを撒いたり、

ポスターを貼ったりだった。手間とコストがかかる。

取材にしても、企画書を送り、電話で連絡を取り、できれば稽古場取材をしてもらい、

そして作品を観てもらい、劇評をお願いする。

結果、辛口になっても受け入れる事ができたが、今はそんな時間的余裕がない。

 

取材される側の立場として何が困るのかと言えば、記者の顔が見えない事だ。

顔が見えない? 

どんな価値観(舞台、演劇に対して)を持っているのかが分かり難い。

以前担当記者が来れないので、別の部署の記者が来た。聞けば何と・・・囲碁担当の記者。

ブチ切れるわけにもいかず、かといって取材をキャンセルするわけもいかず、(タレントがスタンバイ

しているので)仕方ないから私が質問して取材を進めた事がある。

こういった事は、重大な事件が起きた時には、「仕方ない」と諦めるしかない。

よくよく考えると、取材する側も同じ事を感じているのかもしれない。

どんな考え方で、なにを伝えたい集団なのかもわからないのに取材は出来ないと思う。

 

「信頼関係」があってこそ成立する。しかし、信頼関係を築く時間的余裕や機会がない。

なぜか、悲しい。

明確な基準がないこの世界。評価は難しいし、劇評によってお客さんが急激に増える事もない。

日本での舞台文化は、なかなか認知され難いと、後ろ向きな考えになってしまう。が・・・

 

話がいつもどうり飛ぶ。

 

久しぶりに、サミーデービスのビデオを見た。やっぱり私にとっては凄い人だ。

何か落ち込んだり、考えが行き詰ったりしたときにいつも見ているいるのだが、

いつ以来だろう。本当に久しぶりだ。

若い人にとってはあまり興味がないかもしれないが、「偉大なエンターティナー」だ。

 

とにかく、「情熱」しか取り柄がないので(青臭いが)、早く舞台作りをしたい。

| コメント(0) | トラックバック(0)

新劇

先日懐かしい言葉を耳にした。
「広瀬 今なにやってんの?」
「芝居」
「へぇ~ 新劇か。」って。
新劇 久しぶりに聞いた言葉だ。
 
ヨーロッパ的演劇を日本に広めだした頃の言葉だ。
それまでの日本演劇?は、歌舞伎や新派が中心の商業演劇で、新劇は海外の作品を翻訳して
芸術的思想で上演されていたらしい。詳しくは私も知らないが、たぶん・・・
劇団築地小劇場が始まりだったと思う。その後、文学座、俳優座、民芸と受け継がれていった。はず・・・
東京に遅れること何年かわからないが、1957年 関西芸術座が発足。私と同い年だ。
 
今私は、日本演出家協会関西ブロックに入っている。毎月会報誌が送られてくる。
年配の演出家の方々は、新劇=東京 と言う時代を生きてこられている。
新劇からアングラに。アングラから小劇団ブームに。今はいったいどんな時代なのだろう。
 
昨年 関西の小劇団事情がTVで取り上げられていた。
大阪扇町の空間が閉鎖され、近鉄小劇場もなくなり、阿倍野のアート館も・・・
大阪城ホールの倉庫が唯一活動の場所になっていたが、退去が決定した。なんだか少し寂しい。
 
元来が楽観的思考なのだから、あまり深く考えないことにする。
楽しい新作のミュージカル、大笑いのできるコメディ、そして・・・ 
THE 新劇的作品を今年は上演する。
(日本の作家の作品も密かに・・・・・三島?石原?太宰?う~ん・・・)
 
乞うご期待。
| コメント(0) | トラックバック(0)

舞台人

新年 明けまして おめでとうございます。
 
平成8年8月8日に会社を設立。翌年研究生のオーディション後(50名以上から選んで)21名でスタート
一年間の厳しいレッスンが始まりました。
最初に頭を抱えたのは、言葉でした。ダンスや歌はどこにいても学べますが、言葉の問題は・・・・・
関西では標準語に対して、強い反発感があり、何度説明してもなかなか信じてもらえなかったです。
標準語ではなく、共通語。どの地域に育っても解り合える言葉。
関西弁は、生活感がないと話せないアクセントです。方言も。決して馬鹿にしているわけではないのに、
抵抗があったようです。
 
劇団を旗揚げする際に友人にいわれました。
「時代に逆行している。今更劇団なんて・・・歳を考えなさいよ。」確かに 40歳では遅すぎるかもと。
「人の人生を背負うのよ。責任もてるの。」とも。また・・・
「関西はお笑いの文化。言葉に苦しむよ。」ごもっとも。しかし・・・
 
「誠実な舞台作品を上演したい。」の思いがつのり、踏み切る事にしました。以来12年。
沢山のメンバーが入ってき、去っていきましたが、「初心を忘れず今年も」と考えています。が・・・
今年は上演作品に新たな考え方を加えて、チャレンジしてみようと思っています。
 
「舞台人」 この響きがすきです。
 
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
| コメント(0) | トラックバック(0)

来年は・・・

今年のブログを全部読み返してみました。いろんな出来事がありましたが、自分のを読んでいてびっくりしました。
なんと、思い出話しばかりで。すいません。
結局今日もそんな感じになりそうなんですが・・・・・
 
今まで仕事をご一緒させて頂いた方々から、いつも同じ質問をされます。まぁ半分は儀礼的かもしれませんが。
この世界に入った理由と、現役を辞めた理由を。つい最近も聞かれました。
以前にも掲載しましたが、ジーンケリーとアステアになりたくて・・・・
日本で同じ事をするためには、どうしたら、どこに行けばいいのかもわからず、姉に相談。姉の事を少し・・・
 
姉が中学生の時、なぜか大阪に芝居を見に行きました。それを知った父が、えらく怒っていた記憶があります。
後年姉と東京で暮らしていた時に訊ねてみました。
「あの時、何見に行ったの?」
「白痴」
「???」
「松橋登さんの作品」
「???」
「劇団四季の初地方公演の演目よ。」
「へぇ~」
そして・・・
「あんたミュージカルやりたいねんやろ?」
「うん。」
「大学卒業したらどうするの?」
「何も決まってないけど、まぁ当分はまだレッスンする。」
「ほら、ここ受け。新聞にオーデションの記事載ってたよ。コーラスラインだって。」と。
 
日大芸術学部に通いながら、バラ座、文学座、演劇集団円、青年座と渡り歩いた姉には
ミュージカルは縁遠いものだったようだ。
ただ「白痴」をみていたので、ミュージカルしかしないわけではないと思っていたようだ。
 
ドストエフスキーの小説 「白痴」は舞台にも映画にもなっている。とても難解な作品だ。
劇中にはいろいろ使用してはいけない言葉もでてくる。
この手の作品が上演された時代は、反社会(政治に対して)の風潮があった。
 
話しがまたまたそれたかな?整理、整理。
 
劇団四季をやめる時に姉に聞かれた。
「なんでやめるの?」ではなく、「何がよかった四季では?」だった。
この話しは長くなるので、年明けにお伝えする。
 
劇団てんも、「白痴」のような大作にチャレンジしようと思う。
社会から多少の批判を受けるかもしれない。観劇後に爽快感がないかもしれない。しかし・・・
作品作りで、肉体ではなく、頭が汗をかくぐらいの稽古がしたい。
一番の問題は、私が作品を理解できているかどうかだ。
「エクウス」「カッコーの巣を越えて」「カラマーゾフの兄弟」「ひばり」・・・
いくつか挑戦したい作品がある。
来年は重厚な作品と、コメディを何本か上演したい。
 
それではみなさんも、よいお年をお迎えください。(あれ?そうか今日はクリスマスだった。)
| コメント(0) | トラックバック(0)

忙中 閑?

寒い!寒い! さぶいです。 本格的な冬の到来です。
TVでは各地の降雪情報を伝えています。雪がふりだすと、身体がムズムズします。
そう、スキー!!!
 
初めてのスキーは、小学生の時でした。
神戸六甲の人口スキー場。雪がザラザラで、ベタベタしてたのを覚えています。
兵庫県北部に、神鍋スキー場があるのですが、シーズンオフはゴルフ場になります。(40年前の話し)
 
北海道 手稲、ニセコ、大雪山。山形県と宮城県をまたいでいる 蔵王。
八方、赤倉、菅平、黒姫、天元台、志賀高原、猪苗代、苗場 等々 いろんなところに行きました。
当時は東北、上越新幹線もなく、夜行列車かバスでした。
 
 
一番のお気に入りは、やはり 蔵王です。
山の頂上からスキーを担いであがり、樹氷原の新雪をすべるのが最高でした。
また蔵王は、右?北?に降りると山形県。左?南?に降りると宮城県で、雪の質も違うのです。
その蔵王で怖い思いもしました。
冬眠中のはずの熊が、なんとゲレンデにいたのです。大騒ぎ!
 
スキー用品もずいぶんと進歩しました。
初めたてのころは、ストックは竹。靴は皮の紐靴で、雪がどんどんしみ込んできて、中はグチョグチョ。
パンツはトレンカと呼ばれ、裾が細く靴の中に入れ込むタイプ。
ダウンが発売された時、真っ先に買いにいきました。暖かく軽い。革命的でしたね。
板には多少のこだわりがありました。
ヘッドの黒くて長くて重いタイプ。扱いにくいのですが、まぁ よく滑るのなんのって・・・。
水に浮かぶ板が出てきた時は少々呆れました。
 
さて・・・
 
大学に通い、レッスンに明け暮れ、夜中はバイト。
そんな中で、冬のわずかな時間を楽しんだ思い出。忙しければ忙しいほど、ひと時の楽しい時間をすごせる。
 
2010年は、劇団活動、舞台制作に忙しくなれるようしなくてはと、最近つくずく思います。
| コメント(0) | トラックバック(0)

兄貴

今日ラジオでジャニーズの事を紹介していた。
少年野球チームだったジャニーズが・・・
1964年 デビュー あおい輝彦、飯野おさみ、中谷良、真家ひろみ
 
私のダンスの師は、山田卓先生。兄貴分が、飯野おさみさんだった。
飯野さん(通称 チャミさん)は、1968年ジャニーズ解散後渡米された。
40年前のNYの話しを聞いた事がある。
「ウエスト・サイド~」の映画に触発され、ミュージカルを志す。
一日 最低でも4レッスン 帰国後劇団四季に入る。
 
以前ブログに書いたが、「広瀬の悩みは・・・贅沢病」と諭してくれた人だ。
 
研究生のころ、チャミさんのダンスレッスンがあった。
嬉しくて、だれよりも早く稽古場に行き、稽古場のセンターを確保した。ところが・・・
いざレッスンが始まると、いっさい振り向いてくれない。言葉で説明しながらレッスンが進む。
よく見ると、チャミさんも一緒に身体を動かしている。つまり、ご自分のレッスンをされてるのだ。
終わってみれば、だれよりも汗をかいているのはチャミさんだった。
現役プレーヤーの姿を垣間見た。
 
ある日チャミさんが稽古場の隅の方で、汗をダラダラ流しながら一人でウォーミングアップをされていた。
半径1メートルぐらいの中で。今までに見たことのない動きだった。思わず聞いてみた。
「何のレッスンですか?」
「これか? ルイジっていうんだよ。ルイジ・ファチュートの基礎レッスン。」
「?????」
「知らないのか? ジャズダンスの基礎を築いた人だよ。ダンスの神様かな。」
「?????」
「ジャズダンスのアームスの形を考えた人で・・・・・教えてやろうか?」
「はい お願いします。」
(興味のある方は、ルイジ・ファチュートで検索してみて。)
しかしこれが大変だった。今風に言えば、ヨガ的要素が入っていて、30分ぐらいなのだが、キツイのなんのって・・・
膝をやわらかく使いこなすダンスが元になっていて、加えて、アームスの動きが止まる事なく進む。
その当時LPレコードがあり、それを一通りかけてアップをしていた。片面30分ぐらいだったと思う。
 
今日も古い話しになってしまったが、ルイジのダンススタイルは、いろんなダンスがある現代でも通用する。
 
兄貴 チャミさんには本当にお世話になった。 元祖 アイドル 
またいずれご紹介する。
| コメント(1) | トラックバック(0)

ボツ企画Ⅱ

プロデューサーとして最初の仕事は、演劇集団「円」の「欲望という名の電車」公演だった。
主演は、岸田今日子さん。
岸田さんのお父さんは、劇作家で文学座の創立者の一人だ。
岸田さんは当時から不思議な感性の持ち主で、どこか物悲しく思えた。
三島由紀夫さんの演出で、「サロメ」の主演をされている。ずいぶんと昔の事だが、ぜひ見たかった。
若い世代の人達には、アニメ「ムーミン」の声と言った方が分かりやすいかも。
 
劇場のプロデューサーの仕事は、大きく分けて二つある。
作品そのものを交渉して、買い取り、興業する。もう一つは、ゼロから企画・立案して、興業する。
どちらも二年以上前から準備に入る。
何本か買い取り公演を進めながら、いつかは自分の企画作品をと考えていた。
日本の演劇界老舗 文学座の公演を担当したのだから、どうせなら・・と考えた。
ミュージカルがやりたくてこの世界に飛び込んだのだから、ミュージカルの原点のような・・・
 
インターネットなどない時代だったので、文献を探し歴史を辿ってみた。
どんな世界にも、父や母と呼ばれる人がいる。ミュージカルの世界にもいるはずだと・・・
「ジョージ・M・コーハン」 「ブロードウェイミュージカルの父」と。
一度ブロードウエイに行ったときに、確か銅像があった気がする。
「よし、これでいこう」
彼の人生を描いた映画、「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」を早速見てみた。感想は・・・
「この作品の舞台化は大変だ。」
しかしその時すでに、「ジョージ ・M・コーハン」なる作品があった。
原本をとりよせ、知り合いに翻訳をお願いした。
とにかく公演に向けて準備に入った。予算を組み、キャスト、スタッフの人選をし、宣伝、広告、営業戦略・・・
 
やっと今日の本題に。
 
公演まで一年を切った時期に・・・同じ時期に対抗馬があらわれた。その企画書を見て、唖然とした。
「勝てない」
興業が成功するか否かは、残念だが「キャストの知名度」が大きく左右する。
私の企画作品も、ある程度知名度があったが、当時から生意気にも「実力重視」を優先させていた。
対抗馬の主演は・・・実力、知名度、くわえて 「品格」まで備わった方だったのだ。
頑張るだけ頑張ったが・・・結果は当然わかっていた。私の企画は先送りになった。
ボツになった企画は山ほどある。いつか再チャレンジしようと思っていると。
 
えっ 対抗馬の主演?  ・・・ Mたか子さんのお父上。 納得。
| コメント(0) | トラックバック(0)

ボツ企画

政権が交代して、毎日政治のニュースがながれる。ニュースのトップはどの局も仕分け作業風景だ。
机を四角く並べて、討論?質疑?が行われている。 どこかで見た風景なのだが・・・・・そうだ。
 
1957年生まれの私は、以前自分の生まれた年がどんな年だったか調べた事がある。
さだかではないが、中学生の夏休みの課題だったかもしれない。
その年のアメリカで公開された映画に、「12人の怒れる男」があった。その映画がたまたま上映されていた。
親には内緒で大阪に見に行った。
今日本で行われ始めた、「陪審員制度」の映画だった。主演は ヘンリー・フォンダ
12人の陪審員達が四角く並んだ机に座って、討論を交わす。まさに仕分け作業のあの風景だ。
 
1990年 三谷幸喜さん率いる 東京サンシャインボーイズが、「12人の優しい日本人達」を上演した。
興味津津見に行った。もう大爆笑!  参った!!!
「12人の怒れる~」も「12人の優しい~」も、俳優としては出演してみたい作品だと思う。
大抵は主演がいて作品を引っ張っていくのだが、この作品は12人すべてが重要で、個性が必要とされる。
こんな作品を「手掛けたい」と思った。その時頭にある考えが過った。
「関西人で上演したら・・・芸人さんを・・・」
早速 企画書を書いた。そして無謀にも、Y興業さんにコンタクトをとった。
後日連絡を受け打ち合わせに出向いた。そこで聞かされた事が・・・
 
「面白い企画で前向きで検討してきたのですが・・・」
「はい。何か問題でも?」
「実は・・・○○師匠が・・・ 『毎回おんなじことばっかりやれるかい!』と。」
「はぁ・・・」
「『芸人はな、おんなじ漫才のネタでもその日の客の顔みて、つかみやテンポを変えるんや。へたしたら、
落ちまで変えてでも笑わさなあかんのや。』」
加えて・・・
「『芸人はな、みんなライバルや。自分が一番目立ちたい。下手したら、潰し合いになるで。』」と。
「餅は餅屋」ということらしい。残念。
ただ、「面白い台本やね。」と。 少しすくわれた。
 
このとき「奇をてらった作品づくりをするのは、十年早い」と悟った。
でもどうしても諦めきれずに、後年違う企画をたちあげる事になる。
 
次の機会に。(N川さんとF山寛美さんの企画) 乞うご期待。
| コメント(0) | トラックバック(0)

経験談の良し悪し

早稲田大学野球部の練習風景がTVで流れていた。時代に逆行するかのような、非科学的な練習風景だった。
投手はとにかく走る。捕手は通常より短い距離での捕球練習。ミスすると、罰則の猛ダッシュ。
野手の身体に、バンバン球があたる。たぶん、身体中痣だらけだろう。
監督曰く。 
「若い時に苦しい思いをしておけば、困難に出合った時『あの時にくらべればまだまし』と思える。」
同じ事がどの世界でもいえる。
 
四季時代の先輩がよく口にしていたのは、「ウエスト特訓」 「ウエストサイド・ストーリ」作品のダンス特訓。
聞けば稽古場にトレーナーが待機。夏にもかかわらず汗が・・・出ないのではなく、乾いて塩が吹いてたそうだ。
私も同じ体験を、「コーラスライン」の特訓で味わった。
通常の稽古が終ると先輩方は解散。新人はその後稽古。地獄の始まりタイム。ただ私は地獄には感じられなかった。
何故かというと、男性キャストのすべての役のダンスを覚えられる時間だったからだ。
なんでも自分に都合のいい方にとっていた気がする。
ある日、指導していたダンスキャプテンが、「後50回踊ったら終わり。」と。私は思わず喜んだ。そして・・・
「早くやりましょう。え~と・・・やった 二時間で終わるじゃん。」 シ~ン・・・
その日は大学時代の友達と、確か・・・マージャンする予定だった。 不謹慎?
 
しかしこんな経験が役にたたないと感じた時があった。
 
与えられた歌の音域がだせない。台詞に実感がこもらない。あげくに、ケガをして身体が動かせない。
何度歌っても届かない音域。何度読み返しても言えないセリフ。
大先輩のなにげない一言がなかったら、私はもっと早くに辞めていたかもしれない。
「お前はいつもソロがあるなぁ。台詞もあるし。」だった。 はっとした。先輩曰く。
「広瀬の病名は、う~ん・・・ 贅沢病。」
ひょっとして嫌味だったのかもしれないが、なんでも自分に都合よく取る私には、「助言」に聞こえた。
 
年を取ったせいか、最近思い出話しが・・・
 
芝居を作る現場に早く戻ろうと思う。どんどん引き出しが失われていく。
自分の経験が覆されていく事が、いい作品につながる気がする。
| コメント(0) | トラックバック(0)

習うより・・・

年に4回会社の会議でのお仕事をお受けしている。
その会社は転職組の方が多く、いつも前職の話になる。 私の前職は・・・?
 
大学卒業後・・・
配膳会(アルバイト)・劇団四季・保健体育教師・宅配便セールスドライバー・イベント会社
スポーツクラブフロント係・劇場プロッデューサー・会社、劇団設立
おかげで沢山の人達と出会った。しかし、長続きしなかったというのが本当のところだ。
思い出話しばかりで・・・ 今回も・・・
 
「目から鱗」 私の場合は 「耳から鱗?」 いや「耳を疑う」が正解かもしれない。そんなお話し。
 
大学生の頃、日本バレエ協会からお仕事を頂いた。たぶん・・・「コッペリア」だったと思う。
バレエダンサーとしてではなく、ただ突っ立っているだけのエキストラとしてだ。
二つ返事で、「出たいです」と。日本を代表するあの・・・ 
森下洋子さんの舞台だったからだ。しかも、上野文化会館。
当時音楽関係の人達は、中野サンプラザホール 芝居関係は、帝国劇場 勿論 武道館や日生劇場も・・・
あぁ ちなみに大学の卒業式は、武道館だった。なんたって卒業生が、二万人もいたのだから。
 
話しが横に逸れた。
 
第一幕の終盤だった。コールド、第三、第二、第一ソリストと順番に踊っていく。そしていよいよ・・・
プリマ 森下さんが登場。 踊り始めて間もなく・・・ ?????
「何かがちがう。なんか変だ。」と身体が言っている。 そして・・・
「えぇ~ うそ~ そんな馬鹿なぁ!!!!!!!!」
目の前で踊っている森下さんの、トウシューズの音がしないのだ。いや、聞こえてこないのだ。
あの独特な「コツコツ」という音が。他のダンサーからは聞こえてくるのに・・・
無音ではなかったと思うが・・・ また、特注のシューズだとも思うが・・・
全神経が耳に集中した。
本当は真っすぐ前を向いていないといけないのだが、目ん玉だけは森下さんの足元を追う。
「ウォー」やっぱり音が聞こえてこない。身体中が熱くなった。
 
それ以降バレエのレッスンの時は、足音を意識するようになった。
 
私は元来、頭脳派?理論派ではないと思っている。どちらかと言えば、感覚派?肉体派の部類だ。
ある日バレエの先生に、突然脇の下の肉を抓られた。しかも両手で痣が残るほど。
「背中を使いなさい!」と。
またある時は、足の甲を思いっきり踏まれた。
「つま先を伸ばしなさい!」と。
お腹もお尻も引っ叩かれた。
 
話しを戻そう。
 
この世界ではよく、「習うより盗め!」と言われている。だが私は盗んだ意識がない。
自分の経験から私は 「習うより感じろ!」と言っている。
 
| コメント(2) | トラックバック(0)

伝える責任

落語界の重鎮 三遊亭円楽さんが亡くなられた。
東京にいた時に一度だけ寄席に出かけた事がある。たしか・・新宿「末広亭」だったと思う。
膝を痛めて針に通っていた治療院の近くだった気がする。
舞台には立てないし、レッスンにも通えないし、時間つぶしにブラリと入ってみた。
お客さんはわずか数人しかおらず・・・しかもヤジを飛ばしている。
常連の方だとは思うが、けっこう辛辣なヤジだった。が・・・ しかし・・・
「おもしろくねえなぁ~」「師匠の○○には遠いなぁ!」
そんなヤジにもめげず、若手の方は額に汗を流しながら、最後までがんばっていた。
そして一席が終わりかけた時、おじさんが席をたち大声で叫んだ。
「また来るからよ、稽古しときな!」って。
 
またまたいつものように話が跳ぶ。
 
これまでの人生で思いがけなく励まされた事がある。しかも何気に。
今年亡くなられた水泳界の重鎮 古橋広之進先生。
古橋先生の 「運動生理学」の講義を私は受講していた。
たしかバレエ公演の稽古で、途中退席をしなくてはならず、その事を講義前に教授室に伝えに行った。
講義の途中抜けが嫌いな先生なのだ。怖々とノックをし怒られるのを覚悟で伝えた。
「君はその道に進むのか?それが好きな事なのか?」と。
「はい・・・」ジロリと睨まれた。
「がんばりなさい最後まで。ただしレポートは今週中に」
 
当時の日大には錚々たる教授陣がいらっしゃった。
 
私の卒論の担当教授は・・・ 遠藤幸雄先生。東京オリンピックの体操ゴールドメダリストだ。
四年生の春、卒論のご挨拶に伺った。
「君は体操をするために日大に来たのに、一日も顔を出さなかったね。」
実は私は高校の先生に体操の推薦状を書いてもっていたのだ。それなのに入学して一日も・・・
卒論は担当してもらえないと思った。
「大学きてなにをしてたんだ!」
「○○がしたくて東京に来ました。」
「三年間続けているのか?単位は取れているのか?」
「はい」
「そうか。日大に来た事がその世界でも役にたつ日が来るといいね。がんばりなさい。」
 
私もたくさんの若い人達を指導してきたつもりだが、どちらかと言えば激励より罵倒だったかもしれない。
同じ世界に進もうとする人には、よりキツイ言い方をしてきたかもしれない。
どんな世界でも、「重鎮」と呼ばれる方は裾野が広い。
「人を育てる!」は「簡単な事ではない」と思うが、私もたくさんの方々に恩恵を受けたのだから、
「伝えていく責任」はあるような気がする。
| コメント(0) | トラックバック(0)

ダンサー

久しぶりにゆっくりと劇団てんのHPを見た。
公演記録をクリックすると、過去の公演チラシが映し出される。
懐かしく思い、旗揚げ公演から順に見ていった。
上演された作品はできるだけ記録映像を残しているが、全てアップするとなると・・・
公演の衣裳資料などを残すため、公演ごとに写真を掲載している。
数十枚ある作品もあれば、数枚しかないものもある。
順に見ていくと、宣伝のために作られたVTRも数点ある。
 
アトリエ公演のタップのシーンがでてきた。
「これは誰が振りつけた?」 最初はわからなかったが、よくよくみれば・・・私のようだ。
「スタンドイン」の冒頭のダンスシーンをみて思い出した。
私はほとんどの振り付けが数時間でおわるのだが、この作品の時は二日かかった。苦しんだ。
振付をする時は、できるだけ音楽やストーリーに忠実に、かつ 新鮮にと考えるので、前もって
考えていかず、その場で考え・・・いや感じたままに振付をしてきた。
 
話がまたまた飛ぶ(後で繋がるはずだ。たぶん・・・)
 
先日の日曜日に父の三回忌を終えた。 と言う事は・・・
忘れもしない。
恩師 山田卓先生も亡くなられて二年が過ぎた。
今でも耳に残る言葉が数々ある。
「オトコチャンやろ お前」 「役者やろ お前」 「ダンシングや わかるか?」
「ダンスがうまくなるのはそんな大変やない。隣で踊ってる奴の二倍、三倍踊るか
 誰も持ってないものを手にするかだけや」・・・等々。
 
恩師はお寿司が好物だった。
当時参宮橋(小田急線で新宿からふた駅)に稽古場があった。事務所は歩いて百歩もかからない。
事務所の一階は店舗が入っていた。果物屋さん、クリーニング屋さん・・・そして お寿司屋さん。
ある稽古の夕食休憩時に、「ご飯食べに行こ」と。 もちろんお寿司屋さん。
やつぎばやに注文され、一貫一貫をおいしそうに口に入れられ・・・そして ダメだしが始まった。
「・・・・・」「・・・・・・・」「・・・・・・・・・」 !!!!!!!!!
すべてが芝居のダメだしだった。ダンスに関しては一切無し。 恐る恐る聞いてみた。
「あのぉ・・・僕のダンスは・・・」
「ダンス? 百年早い! ・・・けどな、まぁお前は他の人にないものを持ち合わせてるから、えぇんちゃうか。」???
「それって・・・」
「ん・・・あぁ 童顔と体操。」
「はぁ? あぁ・?・?・?・・・」
ダンスとなんの関係もなかったが、でも 嬉しかった。
 
てんのダンスシーンをみていて思った。(話が元に戻ったでしょ)
私は俳優に振付をしてきた。俳優が踊り、歌い、演技する。これは間違っていないと思う。
卓先生の口癖。
「一流のダンサーに振りつけしたいわ。なかなかおらんけどな。」
先生の言うところの「一流のダンサー」は、「芝居心のある人」を意味する。
私は劇団員を育ててきて、やっと理解できた。
| コメント(0) | トラックバック(0)

記憶・・・

テレビを見ていると映画のCMが目に入ってきた。 「アトム」そう「鉄腕アトム」だ。
幼いころのヒーローと言えば・・・
「鉄腕アトム」「月光仮面」「七色仮面」「隠密剣士」「鉄人28号」「少年ジェツト」・・・
まだまだいっぱい思い出せる。
当時「鉄腕アトム」は近未来の物語として憧れがあった。
 
演劇でも、映画でも、テレビでも、何十年も前の作品のリメイクが多い。
良質の作品を後世に伝える事は大切な事だとは思うのだが、自分の記憶や時代を大切に取っておきたいとも思う。
勿論その反対もある。 「白い巨塔」だ。山崎豊子さん原作の。
数年前に唐沢さん主演で放映された。それより何十年前だろう。私は田宮二郎さん主演のほうを観た。
曾我廼家明蝶さんや、新劇俳優の中村伸郎さんや、太地喜和子さんなど、錚々たるメンバーだった。
しかし・・・それと同時期に、深夜モノクロの映画が放映されていた。
「白い巨塔」だ。田宮二郎さんだったが私は衝撃をうけた。
同じ田宮さんなのに、生き生きとしていた。テレビとは何か違うのだ。
 
同じように、映画館でやはり山崎豊子さんの「華麗なる一族」を観た。
こちらは仲代達也さん主演。父親役は名優 佐分利信さんだった。
若い人はきっと木村拓哉さんのテレビドラマをみたと思う。しかし・・・
何十年前か思い出せないが、私は加山雄三さんのテレビシリーズも見ている。
 
さて、何が言いたかったかと言うと、当たり前の事なのだが、映画は上演時間が二時間ぐらいだ。
その間に起承転結を進めていかなくてはいけない。沢山のカットから選んで仕上げてゆく。
またテレビは、きめられた放映回数、時間があり、それを考え撮影、編集されてゆく。
 
同じ作家の良質な作品でも、私は一度に味わいたいタイプのようで、「白い巨塔」も「華麗なる一族」も
映画での感動が印象に残っている。
では 舞台は?
 
今時間があると舞台作りのあり方を考えてしまう。
時間的な配分からすれば映画だが、撮り終えたカットから選ぶ事は出来ない。
また、テレビ、映画の撮影は時間経過など順不同で進めていく。ラストシーンを先に撮ったりとか。
 
舞台は生物だ。そこにやりがいや魅力がある。しかし失敗もつきもので、完成度は低いかもしれない。
そのため稽古に大半の時間を費やし、何度も確認する作業をする。
新しい方法論は簡単に見つかるわけではないが、劇団の次回作までにはなんらかの考えをまとめておきたい。
 
冒頭の「鉄腕アトム」だが・・・
どんな内容かは知らないが、アトムは単にアニメとしてだけではなく、家族の問題や、政治の問題や、
人間の心の在り方をモチーフにしてきたと感じている。ロボットが人間の心を持つ。
「正義の味方」 この言葉の響きが私は好きだ。
今の子供たちにもきっと伝わると思う。そして、記憶のどこかに残ってほしいと・・・
 
なかなか子供のころから舞台を見に行く習慣はない。私も幼い頃母に連れられて行ったのは映画だった。
ディズニー映画が主だった。初めて舞台を見たのは・・・ 思い出せない。
親が子供の頃に見た良質の舞台作品を、その子供たちが見るためには、長く上演し続けなければならない。
こんな事が可能だろうか。無理かもしれないが、考えてみたいと思う。
| コメント(0) | トラックバック(0)

感性?考え方?

新政権がスタートした。劇的に日本が変化して行くかどうかはわからないが、多少期待はしたい。
舞台や芝居作りも、新たな試みをする時がきているのかもしれない。
 
私の周りでも、ここ三年で色々な変化が生じた。
① 某企業との出会い
② 父とのお別れ
③ 社長業
 
① 某企業の社員の方が、三年前の初夏に突然稽古場を訪ねて来られた。振り付けの依頼だった。
  こころよくお受けして、お仕事をさせて頂いた。がしかし・・・
  私も色々な方々とお会いし仕事をしてきたが、こんなに刺激を受けた経験はない。
  以前オリエンタル劇場で撮影した事をブログに掲載した。その会社だ。
  まさに 「会社、企業は "人"」を、教わった。
  以来三年 今も刺激を受けつつ、お仕事をさせて頂いている。
  劇団員にとっても、映像という生の舞台とは違う形なので、貴重な経験になっている。
  無論私も。
 
② 来月父の三回忌をむかえる。石川県津幡町から夢を抱いて大阪に。サラリーマンとして生き
  八十年の人生を全うした。
  二年経って、ようやく父の遺品を整理し始めた。手に取るものすべてに思い出があり、なかなか進まない。
  進まない理由は・・・ 子供に対する愛情を示す書き物を目にしてしまったからだ。
  私達姉弟は、多少過保護に育ったようだ。親の望みとはうらはらに、姉弟して舞台の道に進んだ。
  五十九歳という若さで先立った母の私に対する口癖。「あんたの育て方 まちごうたわ。」だった
  
③ 八月末をもって、オリエンタル劇場からしりぞいた。劇場運営は、私には荷が重すぎたようだ。
  ある日事務所で、「社長、社長・・・」と。目の前に居た女性に、「広瀬さん お呼びですよ。」と。
  私は 「広瀬さん」と誰からも普通に呼ばれたい。
  若い人達を指導したり、演出や振り付けをしていると 「先生」と呼ばれる事がままある。
  たった一年だが、保健体育の非常勤講師をしていた事がある。学校だから当然「先生」だ。
  小さな会社だが、確かに「社長」でもある。が・・・ 勘弁してほしい。
  劇団の代表、演出家、社長業、夫、親、・・・共通は・・・「責任」かもしれない。
 
時代がどんどん進んで行く。何かにチャレンジしたい。舞台そのものを根底から考え直してみたい。
九時間に及ぶ大作もある。古典の新バージョンも上演された。そんな中で・・・さて・・・
 
劇団てんは人の人生を結構描いてきた。ただ、たった二時間の間に全てを描く事は元々無理がある。
舞台は毎回同じ内容を繰り返し上演する。ここから考え直してみることにしょう。
考えがまとまったら、またご報告します。
 
毎回、毎回同じ事を書いてしまうが、芝居、舞台作りには「人生の経験」が必要。
特に想像力に乏しい私には、頭で考えるより、少々痛くても、傷ついても、身体に感じた事を具体化し
舞台に活かしていきたい。
私のしている仕事は舞台関係。ある人が、「クリエーターですね。」と・・・ 笑ってしまった。
「クリエーター」 なんとも私には似合わない響きだ。 またまた 勘弁して。
  
| コメント(0) | トラックバック(0)

拘りを捨てて

俳優を育てる立場の人達にとって、最低限知っておかなければならない人物がいる。
まぁ、絶対知っていなければいけないわけでもないが・・・・・
 
スタニスラフスキーとブレヒト。
近代の演劇史には必ず登場する。興味のある人は調べてみてはいかがかな。
私なりの解釈になるが、簡単にいえば・・・・・
 
スタニスラフスキー 自らの肉体を役に提供し演ずる。
ブレヒト      俳優が役になりきり演ずる。
 
私は30年以上前に、ゼン・ヒラノさんのワークショプを受けた経験がある。
彼の経歴も興味のある方は調べてみたらいいと思う。
 
どんな人が何を信じて芝居をどう教えていても、それはそれでいいと思う。
なぜかと言えば、それぞれに正しいところがあるからだ。
 
さてなにが伝えたいかと言うと、私は舞台俳優を志す人と仕事がしたい。当たり前ですが。
舞台を志す人たちに求めていることは、技術と個性。
ダンスや歌は何といってもレッスンに懸ける時間の積み重ねが左右する。しかし・・・・・
芝居がどうすれば上手くなれるかと言えば、これだという方法論がない。
沢山の本を読む、芝居を観る、ワークショップを受ける、発声の訓練をする・・・等々。
スタニスラフスキーもブレヒトもゼン・ヒラノも共通している事がある。
「肉体と感情の解放」
解り易くいえば、自意識をいかにすてるかだ。自意識を捨てる? え~と・・・
恥ずかしいと思う事をぬぐい去る かな?
 
今 いろんな人達が演劇のワークショップを開催している。私もそのひとりだが・・・
ただ以前からなんとなく違和感があった。なにかが違う 他の人達と・・・
ワークショップは演劇界の底辺を広げるものだと思っている。
だから、素人の方や色々な職業のかたがたが対象になっている。
勿論 プロを目指す人達にも行う。他の方々もここまでは同じなのだが・・・ところが・・・
すべての方々とは言わないが、話を聞いてみると、ほとんどの方々が内容を変えているのだ。
一般用とプロ用に。 これにはびっくりした。私には出来ない。
 
私のワークショップの内容は、対象が子供でも、一般の方でも、お年寄りでも、プロを目指す人でも変わらない。
身体を温めるウオーミングアップから始まって、発声をし現実に上演された作品の一部を・・・・・
無論それぞれにかける時間は異なるし、ウェートも違う。しかし内容は同じ。ではなにが違うかっていうと・・・
対象になる人達に対する接し方が、天使と悪魔?鬼?ぐらい違う。・・・らしい・・・
 
以前にも書いたが、自分が経験したことが下地?トラウマになっているようだ。
バレエの稽古場を探し20か所ぐらい見学してまわった。新宿歌舞伎町コマ劇場の屋上にあったスタジオに。
私は見学していて突然先生に切れられた。
「あなた見学にきたんでしょう。!!もっと真剣にみなさい!!!!!!」と。
その時に感じた。
「ここでレッスンすれば上手くなれるかもしれない。」と
後日談。どうやら始まる前に私が余計?な事を言ったからだったらしい。
「舞台でミュージカルがやりたいです。」と。
またまた後日談。
「バレエのスタジオにくる人はみんなバレエをしたいから。本心は美容的にとか、ダンスの基礎はバレエだから、
 とかいろいろあるけど、みんな真剣に見てほしいから本心は言わないのよ。私も余計な事を考えたくないから、
 私のスタジオに通う人は、みんなプロのバレエダンサーになりたいと思ってると思って接してるのよ。」と。
少し?自慢 こんな経緯があったにも関わらず一年後、午前中のプロクラスへの参加のお許しがでた。
嬉しかったが・・・レッスン内容は多少高度になるのだが、意識レベルが違う。怖いぐらいに。
当たり前か。皆さんプロなんだから。
 
話をもとにもどそう。
 
舞台人に必要な要素は別の職業でも役に立つ。あるいは必要とされている。
と言うことは反対もそうで、普段のなにげない事でも、俳優には役にたつといえる。
これを 経験と一言でかたづけるか、意識しているかどうかで成長の度合が変わる。
 
今日はまとまりのないブログになってしまった。
 
何が言いたかったかと言えば・・・
長年偉そうに 「自意識を捨てろ!!!」と喚き散らしてきた私が、自分の自意識を捨て切れない事に
苛立ちがある。間もなく劇団の落ち着き場所が決まり、いよいよ腰を落ち着けてスタートする。
私も過去の事に拘らず、未来を見据えて進んでいかなくてはと、思っている。できるかなぁ~。
| コメント(0) | トラックバック(0)

何年振りだろう

何年振りだろう。新宿の歌舞伎町を歩いた。
34年前に上京して、ミュージカルを目指すために最初に通った稽古場が今もある、
クラシックバレエの稽古場。
新宿コマ劇場の屋上に細長いスタジオがあった。
楽屋口から入り、床山さんの部屋をすりぬけてエレベーターで屋上に上がる。
外の通路を通ってスタジオに入るのだが・・・
小さな扉を開けると、照明さんのピンルームがある。
 
思い出も多すぎて・・・・
 
ある時、稽古場の外から「ガルルルル~」とうなり声がした。
すると入り口の方から、なんと銃を持った人が二人入ってきて稽古場を横切り、
そのうなり声のする方に出て行ったのだ。
先生が一言、「は~い、皆さん道をあけてぇ~」
今出て行った二人がジャラジャラと音をたてて入ってきた。
なんと、なんとトラの子供が・・・・
トラの子供が屋上にいたのだ。また先生が、
「いってらっしゃい、頑張ってね」って。トラにだよトラに。
新宿コマ劇場で、堺正章さんと由美かおるさんのマジックショーが行われていた。
その出演者(?)なのだ。
毎日19時半、レッスンは中断する。
恩恵にも預かった、ただ券をもらって「マジックショー」を見せてもらった。
大きな象が一瞬に消えたのだ。ところが・・・
舞台の下、奈落から「パオー」と・・・
訓練されていたのにもかかわらずその日は「パオー」って。
後日スタッフに聞くと、奈落をネズミが走り、象が怖がったらしい。
可愛そうな象さん。
 
ふぅ、今日も少し長くなる。あともう少しだけ・・・
 
 
東京六大学野球のシーズンには、必ず優勝校が歌舞伎町で勝どきをあげる。
そして、校歌の大合唱。
コマ劇場前に噴水があり、そこでひと盛り上がり。
最後はおまわりさんの笛の音がこだまする。
 
レッスン帰りに、いつも一つだけ嫌な事がある。
当時は「ディスコ」の大ブームで、コマ劇場の周りにも数多くのディスコがあった。
楽屋口を出ると数十メートルもいかないうちに、必ず女の子に声をかけられる。
「ねぇねぇ、踊りに行かない?」って。
「今踊ってきたとこだよ。(バレエだけど)」と心で叫んでいた。
要は誰でもいいのである。
男性同伴だと、女の子は半額?だったらしい。
 
ネオン街にはいろんな事件もあった。いろんな人生もおっこちてた。
 
また思い出したら、つづってみる事にする。
| コメント(0) | トラックバック(0)

運命?

中学二年生の時に学校でミュージカル映画を観た。
イギリスの作品で、「オリバー」だった。
主演はマークレスターで今話題の人だ。マイケルジャクソンの子供は自分の子供だと打ち明けた人だ。
 
彼はその後 「小さな恋のメロディー」に主演した。
これも大ヒット作品で、ビージーズの曲は誰もが知っている。
そして 「王子と乞食」の映画に出て、その後はよくわからないが大人向きの映画に何本か出て、
俳優業を引退した。
 
私は高校時代に 「カバーガール」と言うジーンケリーの映画を観てこの世界に進む決意をした。
 
なにが伝えたいかと言うと・・・・・
 
劇団四季に入って、まさか中学時代に観た作品の主演をつとめるとは思ってもいなかった。
加えて、私の師である 山田卓先生との出会い。
山田先生の振り付けは、まさに ジーンケリーが踊っていた振りなのだ。
四十年も前に、当時のブロードウェイのダンスを日本に広めた先生だ。
 
自分が観た映画が繋がった。
ミュージカルは楽しそうだと感じた作品に出られる事になり、あの人のように踊りたいと思ったダンスに出会い、
今考えると 運命をかんじる。
 
また少し昔の思い出深い映画をみてみようかな。 
| コメント(0) | トラックバック(0)

数々の思い出

先週かつて自分が舞台で演じた作品が上演された。
劇団四季 「人間になりたがった猫」
28年前のちょうど夏 その当時は同じ作品が北海道と鹿児島からスタートした。
北海道班の主演は 市村正親さん。私は市村さんと同じ役で鹿児島からスタートを切った。
 
この作品には思い出が多い。と言うか、事件が・・・・
① 冷たい視線事件 ② 僕には無理です事件 ③ 40点事件 ④ 4回通し稽古事件   
⑤ 声がでない事件 ⑥ 反響板激突事件 等など・・・あっ・・・・・
一番思い出がある、 僕は主役です事件 が・・・・・。さてどれからいきますかねぇ。
 
まずは少し説明を。
 
研究生の2年目の秋、日比谷 日生劇場で初舞台を踏んだ。作品は「コーラスライン」
その年末までツアーに出るのだが、初舞台の緊張と埃だらけの舞台に負けて、途中ぜんそくに
なり、あえなく降板。
年末に悲しい出来事が重なる。
越路吹雪さんが亡くなる。その一週間後偉大な舞台装置家 金森馨さんが亡くなる。悲しみはつづく・・・
年が明けて間もなく、劇団四季を支えてきた 影万里江さんが亡くなる。なんと言う事だ。
当時は劇団員総出でチケットを販売していた。影班があり、私もその末端の一人だったため悲しみは大きく・・・
 
そんな出来事があった年に、私と山口祐一郎はデビューした。
私は 「オリバー」で、 彼は 「ジーザス・クライスト・スーパースター」
当時の対談記事を読み返してみると、なんと生意気な・・・。お互いにコーラスラインのオーディションで
入った同期だ。
 
さて話は少し逸れてしまうが、あるいはどこかで書いたかもしれないが、私は演出する時に絶対の信条がある。
私は現役の時に舞台上で「冷たい拍手」を浴びた経験がある。人に言わせれば 「そんなことなかったよ。」と
言ってもらえるのだが、私は確かに自分の身体に感じた。私は私と舞台の仕事をする人達には同じ経験を絶対に
させない。そのためには、嫌われても、「怒鳴る」「罵る」「喚く」。これは言い訳? 信条。
 
 今日のブログは長いぞ。支離滅裂。
 
「冷たい拍手」を浴びた次の作品が、「人間になりたがった猫」である。ふぅ~。
「オリバー」がツアーに出る日に劇団員が日生劇場に集められた。ジーザスの舞台稽古の総見と、夏の作品の
キャスト発表だ。そこで第一の事件が起こった。  やっと話が繋がった。
 
日生名作 夏作品 「人間になりたがった猫」
A班 ライオネル 市村正親  パチパチパチ
B班 ライオネル 広瀬正勝  ????????????????? 一斉に視線が・・・・
「なんでだ?」「出来るのか?」「またお前かよ!」
実は私はこの作品を見たことも聞いたこともなく、ライオネル役がどんなに大変な役かまったく知識がなかったのである。
私は 「はい。」としか言いようがなく、またその「はい。」の返事がやたらおおきな声だったようで、のちに反感を・・・
このときに冷たい視線を感じたのである。なんとも言えない視線。
   
ただそんな事は気にしていられない。目の前の作品に全力投球だ。「オリバー」のツアーに出発。
「オリバー」の旅公演の途中東京に戻れる日があり、私は劇団に行って「人間になりたがった」のVTRを見ることにした。
そこで 第二の事件が起こった。
VTRを見始めてすぐに私はわが目を・・・・・ なんとそこには・・・
緞帳があがり歌を歌い、長い一人セリフで幕があく。そのうえ子供たちに話しかけ、ぐいぐい引っ張っていくライオネルがいた。
この役を私が・・・その時となりから声がした。演出家の先生。
「何してんだ。」
「次回作の勉強です。」
「どうだ?」
「はい。僕には無理です。」素直に答えた。市村さんだからこそ子供達もついてきてるし・・・・・
このあととても叱られた。
せっかく与えて頂いたチャンスなのに、いや せっかく与えて頂いた役だからこそ私では駄目だと思った。未熟すぎると。
 
まだまだ続きはあるのだが、また次の機会にお伝えします。
 
何年たっても忘れられない事があります。過去にこだわりを持ちすぎてもいけませんが、私が「芝居が好き」と言えるのは
この作品に携われたからです。

| コメント(2) | トラックバック(0)

時代を背負う?

先日神戸で 「女の一生」が新派名作劇場として上演された。
この作品は文学座の故杉村春子さんの代表作である。
杉村春子さんはこの世界に生きている人達なら誰でも知っているはずだが・・・
「女の一生」は千回近く上演されている。
昭和二十年四月初演 まさに東京大空襲のさなかだ。予定されていた劇場が
焼けてしまったため映画館で上演された。
文学座の代表作が新派の方々で・・・新派は昨年が創設百二十年だったときく。
先代水谷八重子さんの事は、まだ幼かった私でも記憶に残る名女優さんだった。
 
この公演には、随分なご高齢の方々がお越しになった。いろんな人生を背負ってこられた方々だ。
そんなお客様をみていると、ずっしりと芝居の重みや責任を感じる。
 
さて芝居バトルが終了した。いろんな経験もした。ただ、随分と私も年を重ねたなぁと感じた。
二十代のころ、血気盛んな演劇人が集まると、最初は和やかに話をし、お互いに
認めあってはいるのだが、徐々にお酒もはいってヒートアップし、最後は罵り合い
になる。挙句の果ては 「二度とお前らとはあわねぇよ。」 と言うのがお決まりのパターンだった。
芝居と言うのは時代背景に大きく左右され、若者のエネルギーの発散の場となっていたようだ。
現在はみんな仲がよく、優しい。
 
関西の演劇界が停滞していると耳にする度、何かやれる事はないのかと思ってしまう。
 
劇団てんが、「後世に名を残した」とか、「一世を風靡した」とか、そう言われたいと考えた事もあった。
が・・・後からついて来る事に左右されてはいけない。  
 
「芝居バトル」 「女の一生」 何のつながりもないような感じだが、私に大きな刺激を与えてくれた気がする。
 
「芝居がすき。舞台がすき。」 続ける事で何かが見つかる気がする。
| コメント(0) | トラックバック(0)

東京サンシャインボーイズ

日本の劇団の老舗と言えば、民藝、俳優座、文学座。
先人の方々は大変な苦労をされてきたと聞く。サラリーマンをしながらとか
映画のお仕事をしながらとか・・・・・時代はTVへと。
 
そんななか小劇場ブームがやってくる。
今は下北沢の本多劇場が建っているが、劇場が建つ前はその空き地にテントが
はられ、そこでお芝居が上演されていた。もう25年以上前の話だが。
 
しかし次々と新しい世代の演劇が台頭してきた。
第三舞台。小劇団ブーム? 凄まじい勢いだった。
かたや、東京キッドブラザーズや夢の遊民社など等、演劇界には勢いがあった。
 
私は次世代の劇団を探し出す事にした。
そこで出あったのが、東京サンシャインボーイズだった。
下北沢で彼らの芝居を腹を抱えながらみた。面白かった。終演後楽屋を訪ねた。
劇団の代表の方が出てこられた。 三谷幸喜さんだった。
なんとかお願いして、神戸公演を実現できた。その後の劇団の凄い事。
しかし・・・
 
突然の休団宣言。しかも30年。30年後の演目は、「リア玉」。リア王ではなく「リア玉」
 
今年3月、東京新宿にある「シアタートップス」と言う劇場が閉館した。
なんとそこに東京サンシャインボーイズのメンバーが集まって、15年ぶりに公演をした。
本当は見たくてたまらなかったのだが、チケットが手にはいらない。残念。
しかし気を取り直して・・・ あと15年気長に待つ事にした。
 
いろんな形の劇団がある。集団を長く続けることの苦労は大変な事なのだが
楽しみもいっぱい待っている。
 
さて7月の芝居だが・・・
弾けるをテーマに稽古が進んでいる。
お時間のある方。ぜひぜひ見に来てください。
| コメント(0) | トラックバック(0)

劇団てんのカラー

7月に大阪アメリカ村で芝居をする事になった。
アメリカ村 芝居バトル
詳しくはHPを見ていただきたいです。
 
劇団の代表として時々取材を受ける事がある。いつも同じ質問に考え、悩む事がある。
「どんな劇団ですか?劇団のカラーは?」
劇団てんは、ストレートプレイもコメディもミージカルもジャンルにとらわれず上演してきた。
今後もこの方向は変わらない。しかし・・・
 
今回はアメリカ村のソープオペラクラシックスと言うライブハウスでの公演。
いいチャンスだ。しかも他の参加劇団は、強烈な個性を持っている。
女性だけの劇団、30歳以上しかいない男性劇団など等。
今回はチャレンジだ。
思い切って劇団員には弾けた芝居をやってもらおうと思う。
俳優陣の個性に力を借りて作品を仕上げようと目論んでいる。
 
劇団てんのカラーが見えてくるかもしれない。
 
さてさて、神戸は今・・・・・
新型インフルエンザでてんてこまい。判断を誤ると大変な事になるし、かと言ってパニック状態になる事もない。
大震災を経験していろんな事も学んだ。
結局人生経験が芝居作りにも、劇団の考え方にも反映されていく。
 
劇団てんのカラーは無理に創り上げなくても、ごらん頂いたお客様が
感じて頂ければいいのかなぁ~  そんな事も思ったりして・・・
| コメント(0) | トラックバック(0)

99パーセント

4月の初旬に久々に舞台を観劇した。
音楽劇 探偵~哀しきチェイサー  
沢田研二さん主演で、共演者が伊藤蘭さんでした。
作・演出 マキノノゾミ 音楽 coba  ピアノが一本生演奏で入ってました。
 
感想から先に言えば、 見事 でした。
1978年に発売されたアルバム "今度は華麗な宴にどうぞ"の舞台化だそうだ。
アルバム1曲から一本の戯曲が仕上がり作品になる。びっくり。
 
良い作品だったと思う時は、だいたいが本の完成度が高い時である。
 
私の世代では、伊藤蘭さんは アイドルである。しかも "超"がつく。
俳優の悲しいところは、知名度が有ればあるほど余計な演技がしたくなる。
しかし、流れるように本に誠実で、肩に力が入らず、実に清清しかった。
 
久々に心が動いた。
 
見て、聴いて、触れて感じる事はだれにでもある事なのだが、
動いたというか、動かされたというか・・・・・作品を完成させたい。
 
私達は100パーセントを目指して作品作りをする。しかし全ての人が
満足したと言う話は聞いた事がない。おそらくこの先も無いと思われる。
でも、ひょっとして、ひょっとして99パーセントは有り得るかもしれない。
いつも舞台作りには、全力である。それは変わる事はないが、目指す方向を
今一度考えてもいいかもしれない。
 
99パーセントの満足  贅沢な話だが現実を見せられたのだから、
やれない訳が無い。
 
劇団てんの作品でも、他のお仕事の作品でも、舞台に関わる事に関しては
99パーセントを目指す努力をしようと思う。
| コメント(1) | トラックバック(0)

ご都合主義

ある日歯が痛くて街を歩いていたら、普段歩きなれた道なのに
あっちにもこっちにも歯医者さんが目に入ってくる。
何日か通って治療を終えると、嘘のように私の目には歯医者さんが
入らなくなっていた。
 
最近百人一首が読みたくなった。理由が解らない。
 
演劇を指導するとき、台詞と心の動きを知ってもらうために、
よく連想ゲームをやってみる。スタートとゴールを決めて始める。
なんとかゴールに辿り着くためにするのではなく、自然にどこかで
辿り着くものなのである。
計算して連想をスタートさせる人は、だいたい計算した芝居をやりたがる。
思わずゴールに辿り着いた人は、心の動くまま芝居をする人だ。
どちらも俳優業にとっては必要な事なのだが・・・・・
 
さて私の場合ゴールが百人一首だとすれば、計算的発想では簡単である。
藤原紀香、陣内智則離婚~藤原~神戸~生田神社~十二単~紫式部~
と来て、~百人一首 となる。 安易。
 
「台本を読み込む」とは、その役柄の心の変化を探す作業。
数字の変化から、「時世の変化を読み取る」事もできる。
 
今私は、演出家として、また経営者として何かが不足がちになっているようだ。
私の頭と身体がそう感じている。
 
私は、「楽観主義者」なので、日々楽しく過ごせと、勝手に受け取っている。
一日を大切にしようと思う。
| コメント(0) | トラックバック(0)

51歳になって

51歳になって(間もなく52歳)新たな経験をした。
演出、振り付けは何度となく仕事として経験してきたが、
今回は 何と 何と 映画監督?のような経験をした。
 
1月と2月に オリエンタル劇場にて、某会社の映像撮影が
おこなわれた。舞台を利用しての映像撮影。
 
久しぶりに劇場の客席に陣取って、あーだ こーだと・・・・・
 
手前味噌? オリエンタルの座席はすばらしい。
朝の9時から10時間以上座っていても、ぜ~んぜん平気。
 
悲しいかな残念な事は、舞台上では美しいライトなのに、
カメラを通してのモニターには反映されない。 悔しい~
 
てんのメンバーも出演していたのですが、カットカットでの撮影は
不慣れなため、苦労も多々・・・・・
 
何が伝えたいかと言えば、やっぱり私は 舞台が命!
舞台を使用しての作品作りなら、どんなものでもやってみたい。
色んな仕事が舞い込んできて初めて、舞台の良さを再認識できる。
 
舞台人 こう形容される事が一番嬉しい。
 
劇団てんは、舞台人の集団としてこの先も頑張っていきます。
舞台以外のお仕事も、すすんでやります。
 
さぁ 客席に行ってこよっと。
| コメント(0) | トラックバック(0)

カレンダー

<  2010年7月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

アーカイブ